ティナリの大好きな庭

「父さんと母さんは僕のことをすごく大切にしてくれたんだ。僕が教令院に進むことを決めたのも植物に興味を持ったのも全部父さんと母さんが作ってくれた庭のおかげかな」

 ティナリはそう語りながら蒼月と一緒に映っている一枚の写真を取り出した。小さなティナリの耳はまだ少しだけ垂れていて身の丈に合わない大きなしっぽを引きずっている。蒼月は髪の毛を短く切りそろえていた。青い翼はまだふわふわとしたひな鳥の羽毛が混じっている。その背景にはまるでガンダルヴァー村の雨林を切り取ったのではないかと思わせる植物が植わっている。

「……これは、庭なのか?」

 セノが写真を見ながらいぶかし気に聞く。

「びっくりするよね、これで庭なんだ。庭自体の広さは実はそんなに大きくなくて、スメールの一軒家に付属する庭ってところなんだけどさ……まぁ僕の家はチンワト峡谷のかなりぎりぎりにあったから庭になる部分が広かったって言うのもある。でも父さんと母さんは最初は僕が自由に遊べるようにって色々工夫をして庭を作ってくれたんだ」
「雨林にしか見えないな。……いやでもよく見るとネットがある、脱走対策か?」
「そう、僕とユエの脱走対策」

 ティナリは笑って幼いティナリが見上げていた庭について語り始めた。

 * * *

 幼いティナリの日常は実に様々なもので満ち溢れた世界だった。
 スメールシティの東側にある一軒の家がティナリの実家であった。木と葉を組み合わせて外観を作った伝統的な家の内部は、漆喰で塗り固められまた貴重な木材が使われた、かなり立派な家であったと言える。というのもティナリの一族は学者を多く輩出しており、ティナリの実家はそういった学者たちが生活の利便性と研究を重視して作ったある種の研究施設のような趣の家だったのだ。
 ティナリの両親も学者である。父母共に生論派の学者であり研究対象こそ昆虫と古生物と重なることはなかったがお互いの研究について常に議論し研究の精度を上げることに余念がない。食事の時間は大抵父と母の冷静な会話の応酬が繰り返され、ティナリは幼いころからそれを聞いて育った。父と母は声を荒げて喧嘩のように会話を交わすのではなくあくまで冷静に、論点がずれればそれを指摘し、疑問があれば互いに投げかけ、時には行き詰った研究に新たな風を吹き込むためにお互いに相談するように話をする。
 二人の会話は常に理性と知識と共にあった。はっきりとわからないことがあれば「調べるから時間をくれ」と言い、論点がずれれば指摘し、適切な知識を持って会話を進める。二人は研究対象について深く知ることはもちろんだが、結婚生活に対しても実に意欲的であり、二人の生活が始まってからティナリが生まれるまでそして生まれた後も常に勉強を欠かさなかった。一人暮らしの時は適当にしていた栄養について学び、子供が生まれるとなれば教育について考える。その教育の一環がこの庭だったのだ。

 * * *

「父さんと母さんは二人が生論派の学者だったからやっぱり動物や植物に興味を持ってもらいたいって思ってたみたい。自分の研究がなによりも面白いって思っていたらしいからね。だから僕を遊ばせる庭にすごくこだわったんだって」

 そう言いながらティナリは写真に写っているいくつかの木や植物を指さす。

「こっちの大きな木は雨林にも生えているね。他のたくさんの植物がこの木を中心に生えていく。何せこの木は年柄年中大きな葉っぱを落として、どんどん大きくなる。木の枝やうろには土が溜まってそこにまた植物の種が飛んできて色々な花を咲かせる。この木が一本生えているだけでそこはあっという間にスメールの雨林になる」
「そうなのか。あまり考えたことがなかった」
「動物もこの木を中心にたくさん生息しているの。木は成長すればするほど幹の中心からすっからかんになっていくわ。それでもこの木は頑丈だからそう簡単には折れない。でも枝が折れたりキツツキや虫が穴を開けたりして空っぽの中身が今度は動物の色々なもので埋まっていくの。糞とか、死骸とか、食べ残しとか、それらは栄養になって木の中にさらに木が生えたり、きのこの温床になったりする」
「……砂漠ではなかなかお目にかかれないな。複雑な生態系だ」
「そうね、確かに。でも砂漠にはサボテンがある。一部のサボテンはすごく大きくなるからこういった雨林の巨木と同じような効果を持ったりするの」

 ティナリと蒼月が互いに補足するように話をする。ティナリは植物が専門で、蒼月は動物が専門だ。勿論植物と動物というのは非常に大きな区分けであるため、二人の専門や実際の卒業論文はもっと動植物の中の一種類に焦点を当てたものになる。しかし今の二人は非常に幅広く研究をしているため、特にティナリは教令院で生論派の賢者になるだけの知識を持っているだろう。ティナリが賢者になることや教令院で教職に就くことを望まないのは、ひとえにレンジャーの仕事がティナリの性に合っているからだ。それにティナリは教令院があまり好きではなかった。クラクサナリデビが実権を握る新たな教令院がどうなるかは今後わかることだろう。

 セノとしてはティナリのような研究者が教令院の学者として教職に就くもしくは賢者になることは非常に望ましいことであるように感じる。ティナリに大マハマトラは必要ない。ティナリが自分の知識と研究に溺れて間違いを起こすことは、蒼月が隣にいる限りないだろう。
 人は必ず間違える。ティナリとて例外ではないはずだ。何かのきっかけが今後のティナリを大きく変えることがあるかもしれない。それは限りなく低い可能性であるとわかっていてもセノはそうなってしまったときのことを考えずにはいられないのだ。長いこと大マハマトラの地位にいることには弊害もある。
 しかし人が間違えるときに誰かが傍にいればその間違いは形になる前に正されるかもしれない。セノはティナリと蒼月はそういった関係にあると思っている。蒼月は賢者の器ではないが、ティナリと同じように正しく知識を使おうとする。蒼月はティナリが間違えたことをしようとすれば必ず止めるだろう。権力に溺れることも暴力に臆することもない。ティナリと対等に、少し荒っぽい表現をすれば、殴り合える関係なのだ。
 実に興味深く良い関係だとセノは思う。
 ティナリと蒼月は楽しそうに思い出を語る。セノは二人の言葉に耳を傾ける。

 * * *

 このようにしてティナリは常に学問のそばにいた。様々な研究器具を扱う父と母はティナリにとってとてもかっこいいことのように思えたのだ。座れるようになると両親は挿絵の多い学術書を与えて、それは全て自前のものであったから汚れることも気にしなかった。そのおかげでティナリの両親が今でも大切に使っているその本にはティナリのよだれがあちらこちらについている。
 ティナリは歩けるようになるとすぐに庭に出るようになった。研究器具に触ってみたいという願望を両親に伝えたが、父と母が使う研究器具は非常に繊細で高価な物であり扱いを一歩でも間違えれば破損する可能性がある。しかしそれよりも両親はティナリがそれによって怪我をすることをよっぽど恐れていた。カバープレートは非常に繊細なガラス製品だ。簡単に割れてしまって大人でも怪我をすることがある。父が扱っている昆虫は人に飼い慣らされたものではなくあくまで観察対象であった。昆虫は小さいが、扱いを間違えればとても危険でもある。彼らがティナリに攻撃的にならないとは誰にも言いきれない。化石発掘の道具は重たく、特殊だ。化石を丁寧に掘り返すために作られた専門の道具をティナリが扱ったときうっかりで壁に穴が開くことも窓ガラスが割れるこも十分に考えられる。しかしそんなことよりもなによりも両親にとって可愛い可愛い息子の命はこの家も実験器具も全てを失ったとしても絶対に失いたくないものだ。故に子供の行動を予想しティナリが実験器具に触れられないよう常に細心の注意を払っていた。同時に両親は子供の興味と関心を潰さずにさらに世界を広げる方法を模索していたのも事実である。その結果が安全に配慮した庭の作成であった。

 * * *

「昔はなんでも父さんと母さんの真似をしたかったから、父さんと母さんの実験道具や調査道具に触りたくてしょうがなかったんだ」

 ティナリはそう言いながらコップの縁を指でなぞる。中に入っているジュースがわずかに震えて小さな音を出した。ティナリはそれが嫌だったのかすぐに手を引っ込めた。

「でも今なら父さんと母さんの気持ちもわかるよ。コレイが震える手でナイフを持っていたり、学生が慣れない実験器具を扱っているのを見るとはらはらする。僕が小さかった頃と違ってそういうことは必要だとわかるんだけどやっぱり怪我はしてほしくないから、つい口を出しちゃったりして反省するんだ。挑戦すること学ぶことをきちんと見守ることとなんでもかんでも口出しすることは違うとわかっていても思わず口が先に動きそうになる」
「……教育は難しいな。俺もどうしたらいいのかわからない時はある。俺が出れば解決することであっても全てを俺が片付けていたら後任は育たない。俺もいつか大マハマトラを辞める時が来るだろう。その時にマハマトラという組織が正しく動かなくなってしまったらそれはきっと俺の責任だ」
「セノは少し考えすぎな気もするけどね」

 セノはほとんど表情を動かさない。少なくとも大マハマトラとして仕事をしている時のセノは無表情で淡々と仕事をする。

「勿論、僕はマハマトラの仕事を知らないからそう言うことが言えるというのもある。でも今は後任を育てることも大切だけど、君自身を大切にすることも忘れないで欲しい」
「む……」
「そうね、私も同意見。最近は仕事が多かったでしょう。詳しい話は知らないし、話してほしいとも言わないけど心が疲れてしまったらどうしようもないもの」

 セノは少し困ったように眉を顰めていたが「頭の隅に留めておく」と言った。しかしティナリと蒼月はすかさず「だめ」と言う。

「頭の隅じゃなくて真ん中に置いておいて」
「……無茶を言うな」
「そうかな僕は友人として君のことを心配しているんだ。マハマトラとしての仕事の話を僕たちが聞くわけにはいかない。でも人って案外簡単に折れちゃうんだよ」
「……そういえばお前たちは二人とも学生の間ビマリスタンに運ばれたことがあったな。しかも過労で」
「うっ」

 思わぬ切り口で当時のことを切り出されたティナリと蒼月は思わず身を引いた。

「あれは、そうね……」
「うーん、正直言い訳できない」
「なぜそうなったのか、話してもらおうか」

 セノはにっこりと笑う。
 マハマトラとしての仕事の話はティナリと蒼月も時に噂に聞くことはあるだろう。しかしそれをセノの口から話すことはできない。その線引きを三人とも理解している。だからここはセノの祝いの場であってもセノの言葉は少ないのだ。
 ティナリと蒼月にはまだまだ教令院時代のあれこれも含め話すことはたくさんあるようだ。夜はまだまだ明けることはない。

20220907 サイト掲載
20221211 加筆修正