暗い部屋には誰も居ない。残業を終えて一人、暗い家の中に戻るのは少し寂しい気がしないでもなかったが、今さらだ。流星街を出てからは、馴染みの人間など誰一人としておらず、それを寂しいと思う気持ちはなくなってしまったように思う。ただ、最近になって再び馴染みと出会うようになって、気の知れた連中と話しをすることの楽しさを思い出してしまったから、暗い部屋は少しばかり寂しかった。
今日は仕事で面倒な失敗をしでかして、その片付けに追われていたから携帯を見る暇もなかったのだが、携帯の画面を開いても連絡など来ているはずもなかった。
イヴァン
の携帯に登録されているのは仕事先である製薬会社の社員と研究員、それからちょっと裏の情報屋そしてマチやシャルナークといった幻影旅団の何人かの連中だけである。その中にクロロの名前はない。クロロは仕事が終わるとシャルナーク以外絶対に連絡がつかなくなるから、というのもあるのだが、それ以上に
イヴァン
が恋敵の連絡先を知りたくもないというのが一番の理由だった。マチは初めて会ったときからクロロのことが好きでも、クロロは一度としてマチを女としてみたことはない、はずだ。というのも
イヴァン
が知らない空白期間はとにかく長くその間にクロロの心変わりがあったとしてもおかしくはない。あくまで可能性の話しだし、実際にはなかったのだろうと思うのだが、まず第一にマチを女として見ない、マチの気持ちに答えないクロロに腹がたち、さらにマチに好意を寄せられていることに腹が立つ。つまるところ
イヴァン
にはクロロを連絡先として選択する理由がないのだ。メールも不在通知もない携帯をズボンのポケットにねじ込んで、鍵を閉めて、もう3年ほど住んでいる慣れた自分の家に上がった。
そこかしこに趣味で育てている観葉植物が並び、
イヴァン
が通ると葉を揺らす。目に付いた枯れた葉だけもいでゴミ箱に捨てると、
イヴァン
は背負っていたリュックを椅子において、帰り道で買ったパンの袋を開ける。残り物だから安かった。安っぽいジャムの甘さがすぐに舌の上で溶けていく。乾いた口の中ではぱさぱさのパンを飲み込むのが億劫であった。ペットボトルのお茶を開けてぐいと傾け口の中に残っていたパンを流し込む。
ノートパソコンを開いて電源を入れると
イヴァン
は起動画面をぼーっとしながら眺めるのだった。今日はやけに神経を使ったから、このまま寝てしまいたい。ただあと一件は仕事先のメールを確認せねばならず、そしたらあとは自由だ。明日は休みで、折角の休日に仕事を持ち込むなんてもっての他だった。
イヴァン
はわりかし律儀に表社会のオシゴトと言う奴に向き合っていて、その妙な几帳面さのおかげで表社会でもそこそこの評価は得ている。以前マチに蜘蛛に入らない理由を問われたが、そう簡単に手放してしまうにはなかなか惜しい立ち居地だった。まだ捨てるべきではない、いずれ蜘蛛にもこういった立場の人間が役に立つ日が来るだろうと
イヴァン
は思っている。とはいえ本当にこの表社会の顔が邪魔になったら、
イヴァン
は簡単に捨てる気でいるのだが。
面倒だな、と思いながら起動まであと少しのパソコンを眺めて、それから
イヴァン
はもう暗くなった外を見た。カーテンは開いたまま。部屋の中は丸見えだろう。閉めないとと思うが、面倒で動くのはやめた。代わりに・・・というわけでもないが先ほどしまった携帯をひっぱりだして、アドレス帳をざらっと眺めるとメールを打つ。マチ宛に、また食事にいかないか、という内容を途中まで打って、
イヴァン
はパソコンが無線につながっていないことに気づいてため息を吐いた。この間設定したばかりだというのに、まったく面倒なことこの上ない。
イヴァン
はパソコンを設定しなおす前に再び携帯に目を落とすと先ほど打った文章を全て消す。そして代わりに、二文字の短い単語を一瞬のうちに打ち込んで、送信した。
Hlep me
気づいてくれるかな、と思ったときには
イヴァン
の後頭部には銃が突きつけられていて、
イヴァン
は「降参」と静かに白旗を降った。
円はそこまで苦手ではない。ただ、こうして襲われる理由がなくて、さらにいえば身体的な疲労のせいで部屋の中に入り込んでいたその男達に
イヴァン
は気づかなかったのだ。気づいたのは、開けっ放しのカーテン。窓に映った部屋の中に一瞬だけ違和感を覚えたときには手遅れだった。これがウボォーギンやフィンクス辺りだったら、ここら一体まとめてぶっこわして逃走する手もあっただろうが、あいにくと
イヴァン
はそんな破壊力のある大技など持ち合わせていないし、暴力で解決する気は無かった。自分だったら、せめて毒をまくよな、と思いながら、スーツの人間に挟まれて黒い車の後部座席でじっとしている。
携帯はもちろんとられたし、手首にはやけに頑丈な手錠がかかっている。そして露骨にわき腹に突きつけられた銃が、抵抗するなと暗に示していたが、
イヴァン
が抵抗するはずもなかった。元より左足は義足、さらに
イヴァン
の念能力「狂科学者の実験(ラボラトリー)」は直接相手と対峙するような戦闘では相性が悪い。幻影旅団に接触する中でも必ず裏方で活躍する
イヴァン
は、同じく裏方のシャルナークよりも肉弾戦は苦手なのだ。こんなところで、さほどたいした実力はないとはいえ念能力者と戦って無傷で逃げおおせる自信はあまりなかった。
今、何が起こっているのか、ということはわかるようなわからないようないまいち判然としない部分が多い。
イヴァン
を取り囲んでいる黒スーツの奴らは十中八九マフィア連中で、そして今幻影旅団はヨークシンで大仕事をしているはずだ。となると
イヴァン
を捕まえにきたのは幻影旅団と関係がある、ということなのだろうが一体どこでそれが漏れたのかがわからない。シャルナークとの連絡の際はシャルナークが万全の防衛ラインを引いているし、マチとのやりとりはそもそも一般人の恋人のようなそれでしかない。仕事の話はしたことなどないから、そこから漏れるはずもないのだが・・・・とそこまで考えて
イヴァン
はいまだマチと正式な恋人ではないことに落ち込み、それから恋人のようなやり取りはできていることに喜んだ。表情に出せば殴られそうだったので表情にこそ出さないが、内心では小躍りしたい気分なのである。幾分元気になったところで、改めてどこで自分が幻影旅団と関係があることがバレたのか考えたが結局わからない。
(・・・まぁそれは後でいいか)
昼間の疲れもあいまって、あくびをひとつしたら殴られた。口の中に血がにじんで一瞬カッと頭に血が上るも押さえる。
外は見えないからどうなっているのかわからない。これからどこへ連れて行かれるのか、もわからないが、どうなるのかぐらいはおおよそ予測がついた。拷問か何も言わずに殺されるか、どちらかでしかないだろう。運がよければスナッフビデオの参加者(死体役)として顔がネットを通じて全世界に公開されるかもしれないが、あいにくと
イヴァン
には有名になりたい欲はなく、死体役をやるのもごめんだ。だがこのままいけば少なくともあと一週間しないうちにそうなるのは火を見るよりも明らかだった。
マフィアは明らかに幻影旅団に対する報復を考えている。だが同時に恐れても居た。故にそれなりに(少なくとも今は)丁重な扱いを受けているのだ。
(となると、まだ仲間がいる可能性を恐れているな・・・・)
恐怖はなく、冷静な頭で
イヴァン
は考える。この集団がマフィアのうちでどのような立ち居地にあるものなのかは判然としない。なぜならマフィアと流星街は本来蜜月の関係にあるからだ。マフィアは流星街に武器を提供する、その代わりにどのように調べても存在しないはずの流星街の人材を得る。
イヴァン
もある意味そうして流星街の外に連れ出された人間の一人だった。このような特殊な関係にあるマフィアと流星街であるが、それに今回一石を投じる形になったのが幻影旅団の存在である。流星街出身でありながらマフィアの関与するヨークシン地下競売の襲撃。マフィアたちがこの件についてどう考えているのかは知らないが、もしも幻影旅団が流星街の出身であると知ったのならばすぐさま手を引くだろう。どのような痛手をこうむっても、下手な報復は自らの破滅を招く。流星街は良い人材の調達場であっても、同時に得体の知れないブラックボックスであることは確かだった。
つまり、ここにいる彼らは幻影旅団や
イヴァン
を流星街出身であると知らないか、それとも知っていてなんらかの思惑があるかのどちらかなのである。どちらに転ぶかで
イヴァン
も立場を変えざる得ないだろう。もしも自分が流星街の出身であるとわかれば即座に開放される可能性もあるからだ。表の人間はそれほどまでに流星街について過敏なのだ。
(さてどう転ぶか)
先に奪われてしまった携帯には返信は来ているだろうか。あまり期待はできなかったが、気付いてくれたと信じたい。何、死ぬまでには今しばらく猶予はあるだろう、短くて一週間。もういくつか体の一部が欠けたところで今更問題は感じなかった。
イヴァン
は目を瞑って車の振動に体をゆだねる。自然と眠気が襲ってきた。
どの程度は知ったのかしらないが、車は最後に小さくエンジン音を響かせてから停車した。
イヴァン
が表へ出たとき、それは外という意味ではなくあくまで車の表という意味でしかなかった。しんと静まり返ったコンクリートの壁といくつかの扉があるばかりで、蛍光灯の白い色がひどく無機質に廊下を照らし出している。
イヴァン
が連れて行かれた部屋はひどく血のにおいがこもっていてむせかえるような気持ち悪さがある。後ろに縛られた手がひどく痛くしびれていたが、どうにもならないので黙っていると、その部屋の中央にある椅子に座らせられた。冷たい感触がズボン越しにも伝わってくる。金具で腕と上半身をひどく締め付けられて一瞬呼吸が止まりそうになったが、圧迫は止まらない。食いしばった歯の隙間から少しうめき声を洩らすとそこで止まった。下手に纏をして耐えるより、多少苦しそうにしていた方が良い様だ。この反応を見る限り、この連中は念について知らない様子だった。念が使えるとバレるよりも、知られていない方がいいだろうと、あえてあまり纏もせずに、じっとその後の動向をうかがう。部屋の壁にわざとらしく並べられた拷問具を見ていると、フェイタンの部屋を思い出す。目の前の薄汚れたエプロンの男もそれなりに拷問には手馴れている様子があったが、趣味、というわけではなさそうだ。あくまで仕事なのか、少なくともフェイタンのように丁寧に拷問器具を扱う様子は見られなかった。
「これから何をされるかわかるか?」
「さぁ」
部屋の中には拷問を行うであろう男が一人、それから入り口の付近でスーツを着た男が一人。声を発したのはスーツの男だった。細身の体つき、さてここでもし
イヴァン
が暴れでもしたらとても取り押さえられそうにはない。ボディーガードではないだろうと思いながらぐるりと部屋を見回す。めぼしいものは特に何も見つからなかった。
イヴァン
は多少恐怖でも顔に浮かべようと努力したが、あまり上手くはいかなかった。痛みに慣れているわけではないし、むしろ
イヴァン
は蜘蛛のメンバーの中でも痛みには弱い方だった。痛みに対して弱いのと、死を恐怖するのはまた別のものだ。正直な話痛いのは
イヴァン
とて好まなかったし、みっともなく悲鳴だってあげるだろう。だが、この拷問の末に訪れる死に関してはひどく達観していた。もしかしたら達観しているというより、必ずマチが来てくれるだろうと思っていたのかもしれない。
「これがわかるか」
スーツの男は座っていたパイプ椅子から立ち上がると、
イヴァン
の目の前にひどい画像を突きつけた。というのもその画像はあまりに被写体が散らばっており本当に何が映っているのかわからなかったのだ。だが、しばらく目を凝らしていると、画素数は悪くないその写真に写っているのがぐちゃぐちゃに内臓を書き出された死体で、その脇に無造作に転がされている首が顔見知りのものであることに気づいたのだ。解けた髪が血の海に漬かってどす黒く染まっている。本当はもっと美しい紫色をしているのに、とほんの少し顔をしかめると、男はほんの少し満足げに笑んでから言葉を続ける。
「こいつらは幻影旅団で、地下競売を襲った連中だ。お前はこの女と知り合いだったな」
「そうだな」
女の表情は写真からは判然としなかった。マチの頭部を見つめながら、しかしこれは本物ではないなとぼんやりと思った。あの蜘蛛が、この程度のマフィアに捕まるはずもないのだ。
イヴァン
とて半分蜘蛛に足を突っ込みながらこんな風に捕まっているのであまり説得力が無いことは確かだが、少なくともあのクロロ=ルシルフルがこのように死体をさらされる日など考えることすらもできない。
「オレたちは今この幻影旅団を追っている。お前はこの女から幻影旅団の何を聞いている」
「何も。オレは彼女とバーで出会って、一般的なお付き合いをしてただけだから。彼女が幻影旅団なんて今始めて知った。だから何も知らない、離してくれ」
イヴァン
が何の演技もかぶせずにそんなことを淡々と言い切ったのを見て、スーツの男は鼻で笑った。ひどく単調な言葉尻に
イヴァン
が何か知っていると思ったに違いない。
イヴァン
は別にそれで構わなかったし、どうせペラペラと話をしたところで解放されるはずもないことは知っている。こいつらの吐く甘い言葉は、一般人なら口を緩めるのだろうが、最終的に行き着くところは死でしかないだろう。まぁ激しい痛みと苦痛ののちの死か、即死かは選ばせてもらえるのかもしれないが、あいにくと
イヴァン
はその選択肢にはあまり興味がなかった。強いて言うならば痛みのない死が好ましいが、今はそれを選択するべき必要はない。それにスナッフビデオを撮りたいような連中が何をしゃべったところで素直に殺してくれるとも思わなかった。
「幻影旅団はあと何人残っている。その連中はどこにいる。全て話したら解放してやるよ」
「だから何も知らないっ・・・ッ!!おい!!!義足を乱暴に扱うな!」
ふいに右足の風通しが良くなったと思うと、次に鈍い痛みがあって左足が軽くなった。膝下から取り付けられた義足が男の手によって乱暴に外されて床に転がされる。正規の手順を踏んで外さなければ細かな部品が曲がってしまって上手く取り付けられなくなってしまうというのに、と口の中でごちると臭い布をかませられた。
「答えたくなったら瞬きを二回しろ」
2015.05.09
いいね
応援してます
続きが気になる
送信
ありがとうございます!