水道を締めても締め切れずにぽつぽつと奇妙な感覚で水滴がこぼれていた。イヴァンはそれを特に気にすることもなく、代わりに使い終わったカップを水滴の根元に置く。ぴちん、ぱちん。水滴が跳ねて陶器と響いていたが気にしなければ時計の針の音と同じだ。やがてすぐに聞こえなくなってしまうだろう。

「イヴァン」

薄いベッドに腰掛けて窓から外を見ても、さして面白い景色が広がっているわけではない。決して高くないここの家賃から見れば当然だが、部屋は狭く空調もあまり綺麗とはいえない空気を吐き出していた。がたがたと電車がすぐそばを通ると窓ガラスが揺れた。

「俺のところの方が住みやすいよ」

マチの呼びかけに答えずに、イヴァンはぽつりと窓の外に目をやったまま呟いた。当然聞こえていたであろうマチはため息を吐いてからもう一度イヴァンの名前を呼ぶ。

「イヴァン」
「・・・・何」
「あんた何怒ってんのさ」

今度はイヴァンがため息を吐く番だった。
切れかけた蛍光灯がちかちかとして目にうっとうしい。イヴァンは黙って立ち上がるとスイッチを切る。そうしてしまえば、まだ日が沈むには早い時間帯でありながらも、外から入ってくる光はすくなく部屋の中は暗くなった。見えないわけではない、だが細かな表情までわからない。
立ち上がったイヴァンはマチよりも身長が高いから、必然的に見下ろすような形になる。細められた目の奥で何を考えているのか、マチにはわからなかったがとにかく今日のイヴァンは機嫌が悪かった。マチといるときは大抵楽しそうにしていることが多いのに、珍しい。
イヴァンは何かするわけではなく、見上げてくるマチの両目をしばしじっと見つめたあと再びベッドに戻った。靴を脱ぎ捨てて義足も乱暴にはずして、着替えることもせずに薄いマットレスにぼすんと飛び込むと横になったまま顔を枕に押し付ける。いつもなら「やめろ」と言うところだが、いつもと違う様子にそう声をかけるのもためらわれてゆっくりとベッドに近づいてすぐそばに座るにとどめた。
マチにとっては見慣れた部屋の中にぽつんぽつんと緑が置かれている。立地も内装も悪いこの部屋に、イヴァンは頻繁に来ては滞在し泊まり時には自分の荷物もちょこちょこと置いていった。裏社会の人間にとっても面倒ごとが少ないというただそれだけの理由でここを仮の拠点にしていたマチだったが、イヴァンがくるようになってからはマチ自身も滞在時間が増えたような気がした。イヴァンもシャルも表社会によく通じている。流星街出身としてだけでなく犯罪者として生きていながらも、同時にそれらを隠した顔を持っていた。だから彼らは旅団の仕事がないときには表社会によく溶け込んで生きている。マチはあいにくと二面性を持てるほど器用でもマメでもなかった。金はいくらでもあったから、住もうと思えばもっといいところに住む事だってできる。だがそれに付随してくるさまざまな面倒ごとをマチ一人では到底解決できず、そして本人も解決する気がなかった。だからこそ安くお世辞にも素敵とはいえない狭い部屋を拠点としているのだ。ホテル住まいをして渡り歩くほど旅好きでもない。ただ寝泊りするに十分な空間さえあればマチにとっては十分だったのだ。
そんな空間にイヴァンがやってくるようになったのはマチの人生の中でいえばごく最近のことである。イヴァンが住所を聞き、マチがそれに答えた次の日の夜にはイヴァンはマチのこの部屋にやってきた。狭い、といいながらも勝手に上がりこんで座って食事を作って帰っていった。考えてみればここからイヴァンの住む部屋まで電車で二時間ほどかかるはずだ。表の仕事帰りに来たのならなかなかの距離だったろうにイヴァンはあまり気にするようすもなく、それからほとんど毎日のようにマチの部屋に来る。イヴァンが合鍵を持つようになったのはごく自然の流れだった。マチはほとんど防犯に気を使うことはなかったが、むしろイヴァンのほうがそれを気にかけた。
ぽつんぽつん
流しのカップにほんの少しずつ水がたまっていく。
イヴァンは相変わらず枕に顔を押し付けたまま丸まって動かず、マチは特にかける言葉もなくベッドに腰掛けたままだった。一度、問いかけたのだ。イヴァンはその問いかけに答えたくなければ答えないだろうし、答えたくなったら答えるだろう。二度も三度も同じ問いかけをするほどマチは世話焼きでもない。むしろそんな干渉を嫌った。聞こえなかったのならば、とにかくも。
部屋の中はますます暗くなっていって、いい加減電気をつけるかとマチが思ったときだった。立ち上がろうとしたマチの腕をイヴァンが掴んで、それからなにごとかうめき声を上げてイヴァンがマチの腕を引く。お互い大した力を入れてなかったからマチはすとんと上半身をベッドに横たえることになった。イヴァンと並ぶような形で、ベッドに収まると幾分狭い。そもそもダブルベッドでもないのだから当然だが、イヴァンの身長が大きいこともあるだろう。背中には縁の感覚があって、落ちそうだとマチが思うとそれを察したのかイヴァンが右手をマチの背に回した。
立てば身長差ゆえに見下ろし見上げることになるも、こうして横になってしまえばあまり関係がなかった。右手は相変わらずつかまれたまま背に手を回されて、あまり動きができないのが苦しかった。マチが「離しな」と言えば、イヴァンは右手だけは離してくれたものの、背に回した手をはずそうとはしない。
ため息、それから視線を逸らす。イヴァンとマチの間に何かやましいことがあったわけでも喧嘩したわけでもなかったから、純粋にイヴァンは何か口にしたくないのだろう。そうしてため息を繰り返して、水滴の落ちる音が20か30繰り返されたあとに「・・・・・・全部クロロが悪い」と呟いた。
「あいつが来るから」「俺が・・・・勘違いされるんだ」「死ねばいいのに」とイヴァンはぼそぼそとはっきりしない口調でそんなことを言った。マチは近くにいながらもはっきりしない言葉尻に何度も聞き返す羽目になったが、イヴァンは一度言ったことを二度は繰り返さなかった。よっぽど口にしたくないようで、結局マチにはイヴァンが何で怒っているのかたいしてわからなかった。

「またクロロ?いい加減にな」
「・・・マチが悪い」
「なんでさ」

マチが、とイヴァンは繰り返してからうつぶせになるようにしてまた顔を枕に埋めた。そして枕越しにまたぼそぼそとしゃべる。

「・・・・・いい加減にするのはマチの方だろ。なんであいつのこと諦めないんだよ、ふざけんなよ」
「別にあたしは、」
「言うな」

イヴァンのその声だけはやけにはっきりと力が入っていたから、マチは今日だけで何度目になるかわからないため息を吐く。
マチが悪い、あたしは悪くない。そんなくだらない問答を三回は繰り返した。間をあけて理由を説明するでもなくただ悪い、悪いと繰り返されればマチとて機嫌を悪くする。ついにマチがキレてあまりにも勝手な、と言おうとして口をふさがれた。ほんの一瞬のことだったけれども、呼気の少しの乱れもわかるほどの距離でイヴァンは「知ってる」とはっきりと言い切った。何を、と言う前にもう一度口をふさがれた。
ひどく甘ったるい。イヴァンにされるがままになりながら、マチはそんなことを思った。最後に知っている、と言い放ってから、イヴァンは何も言葉をかけることもなくただ肌に触れる全ての感覚に神経を集中しているようだった。
流しの水音に時折混じる小さな空気の破裂音と湿った音がひどく耳を刺激する。今日はそんな気分ではなかったが、今更だ、とマチはその感覚にゆっくりと身を委ねていった。




********************(中略)********************




カーテンを開けば隣の建物の影になりつつも部屋の中を明るくしてくれる。時計を見ればもう十時を過ぎようとしていた。
狭いベッドの中に二人、特にイヴァンが長身なせいで狭く感じられたが、イヴァンはなおさらだろう。まだ素肌をむき出したままのマチの背に額を押し当てて小さく寝息を立てる彼を起こすこともなく、マチは半分閉じかけた目でぼうっと壁を見つめた。昨晩・・・いやつい先ほどまでの行為は記憶に新しく思い起こす必要すらない。腰に巻きついていたイヴァンの右手がゆっくりと体をなぞったところで、マチはため息をついてからひじを後ろに突き出した。

「あだっ」
「起きてるなら起きてるって言いな」
「ひっどいな」

イヴァンはマチの首筋に額を当てたままくつくつと笑う。零れた息が背中をくすぐった。イヴァンの猫ッ毛が首周りにまとわりついてくすぐったい、少し離れようと動こうにもベッドにはほとんど隙間もなく、いまだにイヴァンの腕が腰から外れる気配もなく。

「マチ」
「・・・・なんだい」
「昨日の続きする?」
「はっ?あんたまだやる気?冗談だろ」
「んー・・半分冗談だけど半分は冗談じゃないかな。マチがその気なら俺はいくらでも」

あきれた、というマチの口調が心底あきれたようで、イヴァンはもう一度笑うと「ご飯食べに行こう」と言った。

「マチはどこに行きたい?」
「・・・たまにはあんたが決めたらどうだい」
「俺がいつも決めてるじゃん」

イヴァンはそう言ったところでようやっと上半身を起こした。ほとんど傷もなく綺麗な体にはうっすらと筋肉がついている。マチはその体にゆっくりと手を沿わせたのにはっとして手をひっこめた。イヴァンはもう一度笑っただけだった。



2014.09.15

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