クロロ=ルシルフルのもとへ珍客があったその日は、どんよりとした曇り空であった。カーテンも窓も閉じた部屋の中は、明かりをつけていなければひどく暗かったが、その部屋の中でクロロはテーブルライト一つぽつんとつけて本を広げている。時折、ひときわ強く吹いた風が不規則に窓を叩いては消えていった。直雨が降るだろう。空気が湿っぽい。
 この立地の良いマンションは、クロロが蜘蛛としての活動ではなく個人的に使用している部屋であった。彼にしては割と正当な手段で手に入れたこの部屋は、ワンフロアで一室、一人暮らしをするには手があまる。現に使っている部屋よりも圧倒的に使っていない部屋の方が多く、無駄に大きいだけの浴場はほとんど湯が張られた形跡がない。数日前から締め損ねた蛇口から水がぴちょんぴちょんと床を叩いていたが、防音の整った部屋の中にいるクロロにはその音は気になるものではなかった。
 風が窓を叩く音のほかにはしぃんと静まりかえった部屋の中で、クロロは一心にページをめくって本の中身を頭の片隅にほうりこんでいく。面白い、と思っているかというと少しばかり違う。彼はただ知識はひたすらに脳の中に詰め込んで、それから自分自身にまつわる疑問を探し出そうとしているのだった。
 わからない、という疑問は知らないということを知ることで生じる。クロロはいまいち自分に対して疑問も確信も持てないのは、まず自分のことを知らないという事実すらもわかっていないのだと考えていた。疑問でいいのだ。確信が持てずとも疑問を持つことは自身の核心へ迫る第一歩となるだろう。だからクロロは疑問を持つために時折こうして機械的に知識を詰め込んでいく。何がわからないのかを探すために、自分が何を知らないのかを確認するように本を手に取るのだった。
 ふいにギィとかすかに扉が鳴る音が聞こえ、クロロは眉を寄せた。彼の部屋は防犯が完璧とはいえなかったが、マンションの方がかなり防犯に気を使ったつくりになっている。部屋の中にこそないが、廊下に設置された複数のカメラは、常時管理会社にデータが送られているという話だった。とはいえクロロの階に限って言えば、常に同じ映像が送られる仕組みにシャルナークがしているのだが。とにもかくにもそうそう泥棒が入ってくるような場所ではないはずなのだが、と一通り思考をめぐらせてからクロロは目を瞑った。
 ページをめくりかけの本はそのままに、クロロは彼の体をゆるやかに包んでいたオーラをなんの前触れもなく部屋の中に広げたのだった。そしてそのまま待つ。
 ギィという音が響いた以降何の音もしない。生き物の息遣いすらもない。誰も居ないように思えるが、クロロは円を広げたままじっと待っていた。
 「げっ!」
 「ミランダか」
 クロロの居室のよく整備された扉が音もなく開いたと同時に踏み込んできたその女は、落胆だが驚きだかよくわからない声を上げてそれから「あー」と呻いて近くの本棚の足を蹴っ飛ばしたのだった。
 「気付かれてないと思ったのに!!扉もっとちゃんと油差しておいてよ~!」
 「オレに言うな。別にあれで不満を感じたことがない」
 「あたしが不満だわ」
 「オレに言うな」
 全くもって不毛だ、とばかりにクロロは開いたままだった本に目を戻しながら、風呂に入ってこいとミランダに告げた。
 「あっやっぱ臭う?」
 「近いと臭うな」
 「いやぁ昼寝してたらさぁ、フェイタンがそこ拷問部屋に使うんだもん、気付いたらなんか床血まみれあたしも血まみれ、せめて一言かけろって感じ」
 雨にあたってみたけどだめか、と笑うミランダに当然正常な常識も道徳も存在しない。流星街では、人が死ぬことは善悪で考えたときに悪いことではなかったし、他人が殺されるのも殺すのも別段深く想いを馳せることではなかった。自分が死ぬか生きるかという事象をきちんと捉えられればいいのだ。ミランダはへらっと笑いながら、それでも落ちた落ちたといいながら勝手に風呂場に入っていった。勝手しったる、とばかりのミランダの足取りは風呂場までの道へ迷いがない。それもそのはずシャルナークもフィンクスもフェイタンもミランダも、時折こうしてクロロの居室を訪れては普段クロロが使わない部屋を勝手に使ってまた勝手に出て行く。彼らは時間をもてあましていたり、どこかに行く途中だったり色々であったが、クロロは特に何も言わなかった。彼らが普段何をしているのかについて、クロロは深く追求する気はなかったのだった。
 開け放たれた扉はそのままで、浴場からシャワーを使う音が聞こえる。それからしばらくして大きな水の音も。おそらくはミランダが無駄に広いバスタブに湯を張っているのだ。水道代やら電気代やらクロロは今まで一度も気にしたことはなかったが、水音がうるさいのは不愉快であった。仕方なしに体を横にしていたソファから立ち上がって、締めると風呂場から又大きな水音が聞こえてきた。どう考えてもバスタブに飛び込んだに違いなかった、一拍遅れて痛そうな音とミランダの舌打ちが響く。
 それからクロロはしばらくの平穏と読書に没頭したが、それもすぐに打ち破られる。風呂から上がったミランダは、いつもの服にもう一度袖を通して出てきたが、もう血のにおいはかすかにもしなかった。
 「クロロさぁ蛇口くらいきちんと締めなって」
 「そうか」
 特にミランダの話を聞く気のないクロロは頭の中で適当に生成された文字を並べて口から放り出した。なんの気もこもっていないその言葉にミランダは当然のごとく憤慨したが、それもまた「そうか」の一言を返してやれば諦めたのかクロロが体を横にしている向かいのソファーに腰を下ろす。
 「フェイタンが暇もてあまして拷問業にせいだしてる」
 「そうか」
 「フィンクスって賭博に弱くってさ」
 「そうか」
 「顔にでるしね」
 「そうか」
 「クロロのはげ」
 「そうか」
 「やるきねー!!!!」
 ミランダはそう叫んでから何が面白いのか腹を抱えてげらげらと笑うのだ。彼女は往々にして日々楽しそうにすごしていたのだが、笑い上戸だったから何かツボに入るとしばらく笑いが止まらない。案の定笑い始めたミランダはそれから数分間に渡って笑いが止まらず最後には呼吸が苦しくなったのかひーひーといいながらソファーから落ちたのだった。
 「一体何をしに来たんだ」
 クロロの言葉には言外にさっさと出て行って欲しいという心情がありありと表れていたが、その程度の圧力でひるむミランダではない。床の上をごろごろと転がりながら未だ整わない呼吸の下で「寂しかったからだよ」とふと、珍しいことを口にした。
 クロロは、ページをめくる手をぴたりと止めて怪訝そうな表情で床に転がるミランダを見下す。けしてみくだしたのではなくみおろしたのだが、現状を考えればみくだされていてもしょうがない。ぴたりとミランダとクロロの目があった。
 「なぁんて」
 言ってみたり、といい終わる前にクロロの手元を照らしていたテーブルライトがミランダの額を直撃する。ごつ、と痛そうな音とミランダの悲鳴それから一拍置いての笑い声。呆れたようにクロロがため息をついてもミランダは止まらなかった。
 「お前の中身のなくなった脳みそが唐突に感傷に浸りたくなった理由はなんだ」
 「だからなぁんてって言ったじゃん、理由なんてねぇ」
 ないな、とミランダはあっけらかんと言い切った。本当に理由がないのか、それとも隠しているのかはよくわからない。クロロは本を開いたまま仰向けにサイドのテーブルに置くと、改めてソファーに座りなおす。ミランダは床に寝転がったままクロロを見上げていた。
 「いつからそんなに絶が上手くなった」
 「ん?あたし上手かったじゃーん」
 「嘘をつくな。オレたちの中で一番下手くそだったろう」
 ミランダは、流星街出身の蜘蛛のメンバーの中でも一番絶が下手であった。円も別に得意ではなかった。念そのものの習得率はかなり低い方に入っていたし、純粋な念能力者同士の戦闘力を考えても高い方ではない。妙なずるがしこさだけを武器に、生きていた。今のクロロの言葉はいつから自分をだませるほどの念を覚えたという意味合いであった。
 「内緒内緒。女には秘密があったほうが美しくなるんだって誰かが言ってた」
 「普段の立ち居振る舞いは女と言うより女児のそれだがな」
 「ひどい」
 ミランダは喉がかれるまで笑って、笑ってから、まぁ意味はないよとふっと真顔に戻って言った。
 「それよりさ、皆暇してるんだよー。新しい仕事とかないの?」
 「特に欲しいものもないしなぁ」
 「適当に暴れられるところでいいって」
 「適当にやればいいだろう」
 クロロの言葉にそれもそうだなぁなんて、ミランダは口にしてからようやっと体を起こした。土足の床は掃除がしてあるとはいえ、綺麗であるとは言い難い。しかしミランダはそんなことをまるで気にした様子もなく適当に声かけて行ってくるわ、なんて言うと立ち上がるのだった。
 「ミランダ」
 「ん?」
 「いや、全員ではないが、今度少し付き合え」
 「いいよ、どこ?」
 「あとで伝える」
 クロロは顎に手を当てて、ミランダのほうを見るでもなくそんなことを言った。ミランダはそんなクロロに疑問を持つこともなく部屋を出ると今度は絶を使うこともなく、普通に玄関から消えていったのだった。
 ミランダがい無くなった部屋は唐突に静かになる。それこそ嵐がやってきて唐突に消えてしまったかのように、クロロの心臓の音とそれからちょっとばかし強くなった風の音しか部屋の中には聞こえない。
 ミランダが出て行ったときに巻き上がった気流のせいで、仰向けにおいてしおりも挟んでいなかった本はいつの間にかページが閉じてしまっていた。そういえばページ数を見ていなかったな、と思いながらクロロはシャルナークにメールをするために、久々にパソコンの電源を立ち上げるのだった。





2015.04.14