それは全身の汗腺からぶわりと冷汗が噴き出るような感覚だった。特級呪霊と遭遇した時の感覚、それに近い。
『何かご用でしょうか』
「……」
『そんなに緊張することはありませんよ。本気でやれば貴方の方が強いんですから。ただまぁ、今は、特級呪霊に挟まれていますからね、私とあちらどちらを叩くかによって勝敗は色々と変わりそうではありますが』
「君が逾白か」
『名前をご存じとは嬉しいですね』
白々しい言葉だった。
曜次の話に寄れは逾白と言う呪霊は人の感に触る言い方をするのが好きらしい。気まぐれで、奇妙で、気に障る、そんな刀だそうだ。だから傑は腹にぐっと力を入れて、命令をするように逾白に声をかける。
「私はあの玉藻前と名乗った呪霊を調伏する。逾白、君には足元の花を任せたい」
『花? ああ、
曜次がしてやられたこれですね。ええ、ええ構いませんとも。どうぞ私のことはお好きにお使いになってくださいませ』
逾白はくすくすと笑いながら、腰に佩いた刀をすらりと引き抜いた。
花はまだ咲いていない。おそらくではあるが、花粉が届く範囲に限界があるのであろう。傑が花の領域に入らなければ花は開かないのだ。だが一歩でも踏み入れば、
曜次を酩酊させたあの花粉が舞い散るだろう。
正直なところ傑は逾白のことを信用していなかった。当然だ、
曜次と異なり逾白と対面するのは初めてのことなのだから。だが今は
曜次の言葉を信用して動くしかない。逾白は呪霊だが味方だ、傑自身が使う呪霊操術のように自在には操れないが、傑に害為すものではない。
傑はふーっ、と息を吐いて体を整えていく。首元に巻き付いた呪霊から游雲を引き出して、領域の外から構えた。縮地で間を詰めてもいいが、傑は縮地を完全に会得したわけではないので足に負担がかかる。現に先ほど
曜次を助けるときに使っただけで足はじんじんと痛みを訴えていた。長期戦になれば傑が不利だろう。一発勝負を仕掛けるしかない。
傑は体を前にふらりと倒すようにして、前に一歩足を踏み出した。体が前に倒れる前にさらに次の足を、そしてさらに次の足を、と足を継いで継いで走り出す。領域に入った途端、花は一斉に開花しようとつぼみが首をもたげるが、それらが開花するよりも逾白の刀が領域内のすべての花のつぼみを切り落とす方が早かった。
『!?』
何が起こったのかわからなかったのは傑も玉藻前も同じだろう。相当な面積がある花畑の花を一つ残らず切り取ってしまったのだ。どうやったのか逾白に聞いてみたかったが、逾白はきっと答えてくれないだろうと傑は思いながら、玉藻前との距離を詰めていく。
傑の游雲が玉藻前を捕らえた。玉藻前は游雲とぶつかるのを厭うてか、下がろうとするが、下がれば最早玉藻前の領域ではない。大きく振り下ろされた游雲は、遠心力を味方につけてさらに勢いを増して玉藻前にぶつかった。ただの呪具であれば玉藻前に対しなんの効果もなかったであろう。しかし游雲は打撃力を極限まで極めた特級呪具だ。その力は軽く打っただけで低級呪霊なら吹き飛ぶほどである。游雲が玉藻前に触れた瞬間、玉藻前は絶叫を上げた。玉藻前を守っていた呪力の鎧もあっけなく砕いて、玉の前の首がぽきりと折れる。
『ア、ア、アア』
玉藻前の口から悲鳴にも似た声が漏れた。だがこの程度では特級呪霊は死ぬことはない。
ゴキリ、ゴキリと嫌な音がして、玉藻前の首が元に戻っていく。折れた骨も、裂けた肉も、体そのものは呪力でできている呪霊にとって治すことは優しい。呪霊を倒すとするならば、人間で言うところの頭や心臓を叩き潰さなければならない。それは多くの場合呪力の核として呪霊の体のどこかに存在する。
だが今回の傑の目的はただ呪霊を祓うだけではなかった。この呪霊を取り込みたいのだ。現在傑の手持ちはほとんどが二級以下の低級呪霊の集まりである。一級呪霊はわずか二体。それだけ、祓うのではなく調伏し取り込むという行為そのものが難しいことを示している。もし傑一人であれば玉藻前を取り込むのは難しかっただろう。だが今は逾白がいる。傑は玉藻前に集中し、逾白にその他すべてを任せれば、特級呪霊を取り込むのも夢のような話ではなくなるのだ。
傑は玉藻前に猛攻を仕掛けていく。ただの打撃、たかが打撃。されど極限まで打撃を極めた游雲の一撃は、たやすく玉藻前の呪力の鎧をはぎ取っていく。鎖でつながれているという、槍や刀よりも自在に動かせる三節棍の特徴を生かし、傑は絶え間なく玉藻前を撃ち据えていった。手を折り、足を砕き、体を叩きのめし、首を弾き飛ばす。
玉藻前は攻撃のすべてを領域に任せている。さらに仮令領域を展開していることで、玉藻前自身の力は極限まで薄められているのだ。これがもし領域での話でなければ、傑はもっと苦戦することになっただろう。
玉藻前の回復を許さない勢いで攻撃をする。
だが勿論玉藻前とて何もせずにやられているわけではない。いつの間にか玉藻前の足は、足元の花と同一化していた。
ぷちっ、と花を手折ったような感覚がした。気づけば目の前にいる玉藻前は草の抜け殻となっていた。傑が驚いて後ろを振り返ると、そこかしこから玉藻前が生まれようとしている。花が咲く領域は全て玉藻前の自在な空間であることを失念していたのだ。いかんせん、この領域そのものが普通の領域らしくないことから、傑の意識から領域における領域主の絶対性を忘れさせていたのだ。
「逾白!」
傑は最も近くに生えた玉藻前を叩いたが、その感触はふんにゃりと、豆腐でも叩いたかのような感覚だった。游雲は勢いをつければさらに打撃力が上がっていく。傑は一瞬驚いたものの、游雲の勢いを殺すことなく、片端から玉藻前を叩きへし折っていく。本体は確実にこの中にいる。本体を見つけ出せば傑の勝ちだ。
逾白もまた攻撃を仕掛けていた。刀の付喪神(呪霊)である逾白にとって、刀というものは体の一部、手の延長線のようなものだ。刀を扱う手は自在に動き、複数に分裂した玉藻前をたやすく切り裂いていく。
花が再び咲こうとしてた。それを見た逾白はぐっと体を落として、静かに言った。
『跳びなさい』
その一言は傑の耳ではなく頭の中に直接響く。傑はその声を聞いた瞬間、背筋が総毛だつのを感じ、大きく跳び上がった。その瞬間、傑の足元に生えていた花、無数に分裂した玉藻前の全てを逾白の刀が一瞬のうちに刈り取った。
足元の植物から分離した玉藻前の分身は、水を失った植物のようにしおしおと形を崩していく。その中に一つだけ実体を保っているものがあり、それこそがこの領域の主で間違いなかった。
傑は痛む足をなるべく気にしないようにしながら游雲を構えたまま玉藻前の本体に近づく。
何も言うことはなかった。呪霊相手に話をしても無駄だということは傑が一番よくわかっている。最後の一撃に游雲を大きく振り上げて落とすと、玉藻前はそのまま沈黙した。
傑が手をかざす。玉藻前の体の輪郭がぼやけて、チリのようになるとそのまま傑の手のひらに集まっていく。そして玉藻前が綺麗な黒い球体になってしまうとくぼ地の花畑も消えてしまった。そしてその下から現れたのは大量の人骨出会った。まだ完全に骨になり切れていないものもある。これだけのものが隠れていたのか、と思うとぞっとするが、とにもかくにも任務は終了だ。傑は手のひらの飲み込めるサイズの小さな玉に嫌な表情を向けてから、それを思い切ってごくりと飲み込んだ。いつにもましてひどい味だ。呪霊の等級に限らず、この玉はひどい味をしていると思っていたが、特級になると腐臭すら漂っているような気がしてくる。吐き戻しそうになるいつもの感覚を何とか収めて喉の奥へと押し込んでしまうとようやっと終わったのだという実感がじわりじわりと湧いてきた。
今回の任務は長かった。電車に乗るところから始めて、このくぼ地にたどり着くまで、とにかく緊張の連続であったため傑の精神も随分と摩耗していた。
逾白はなんということもない顔をして刀を鞘に納める。
『終わりましたね、いかがでしたか呪霊の味は』
わかってて言っているのであろう。逾白と言う刀は逐一人をいら立たせる物言いをすると以前
曜次が言っていた。口車に乗らない程度に適当に、投げやりに返事をしていればそのうち沈黙するので放っておくのが一番だ、ということらしい。だがあいにくと今の傑にはそもそも言い返すほどの気力がなかった。「はいはい」と投げやりに返事をする。
足が鉛のように重く、じんじんと痛んでいる。しばらくの間は任務は無理だな、と傑は思いながら、
曜次を置いてきた場所へ戻るため、再び道なき道へと足を踏み入れた。
少々迷いつつ、逾白の案内を得てなんとか
曜次のところへたどり着くと、
曜次は置いてきた時と全く同じ姿勢でぐぅぐぅと寝ている。こちらの苦労も知らないで、と思わないでもなかったが、
曜次の特攻がなければ共倒れになっていた可能性が高いので、今回は許してやることにしようと傑は思う。だが、だ。だが
曜次を担いで山を下りるつもりは毛頭ない。
「
曜次」
「……」
「
曜次、起きないと蹴り飛ばすよ」
「んー……朝?」
「まぁそうだね、おや……本当に朝のようだ」
呪霊が傑に取り込まれたことで領域が解除されたのだろう。ここがどこの山か知らないが、気づけば山の端から日が顔を出そうとしている。柔らかな日差しが暗闇に包まれた山に光をもたらしていた。
「さぁそろそろ酒も抜けただろう。帰ろう。私はもうくたくただよ」
「んーわかった。逾白もよくやったな戻れ」
曜次がそう命令すると、逾白は一礼してするりと刀の中に消えてしまった。その刀を
曜次は拾い上げて刀袋に入れて背負う。
「ところでここ、どこ?」
「さぁ?」
どこかの山中であることは間違いないが、あの鳥居の結界で遠くへ飛ばされた可能性がある。駅に残してきたサラリーマンが心配だったが、補助監督に頼んで救出してもらえば問題ないだろう。自分たちが迎えに行く、と言ってしまったが、あの結界でどこぞともしれぬ山に飛ばされてしまったのだとしたら残念ながら迎えに行けそうにない。まずは位置の確認、補助監督には傑と
曜次の写真を持っていってもらって、代理で来たことを伝えてもらうほかないだろう。いや、もしかしたら仮令領域が崩壊したことで、あのきさらぎ駅も正常化し、山本と名乗った男もどこかの駅に飛ばされているのかもしれない。調べないといけないことは山のようにあったが、だがそれほど気張る必要はないだろう。何せこの山の主であった特級呪霊はもういなくなったのだから、きっとここはもう安全だ。
20210302