ヨゴトノリトのパラドクス

番外編 きさらぎ駅参

 がたんごとんと軽トラの荷台は揺れる。クッションが硬いため荷物が少ないと少しの凹凸でも揺れが激しくなるのだ。曜次はしばらくの間は静かに座っていたが、座布団も何もない軽トラの荷台はあまりにも尻が痛すぎて、あきらめて立ち上がった。夜風だけが涼しく曜次を迎えてくれる。じりじりと近づく山は、おいでおいでと傑と曜次を招いているようだった。事実招いているのだろう、軽トラックと人間(らしきもの)まで用意して、駅まで迎えに来させたのだ、普通の人間なら、多少違和感があろうとも車に乗ってあの山まで行ってしまうだろう。前任の術師たちはどうしただろうか? おそらくは山まで行ったと思うが、彼らが軽トラを使ったかまではわからなかった。
「傑、尻痛くないの?」
「私はわりと着込んでいるからね。着物がクッションになってくれるからそれほど」
「ふぅん」
 曜次はそう言って前を見る。軽トラの上で立ち上がると、初めは少しバランスをとるのに難儀したが、慣れればなかなか心地がよい。時々跳ねる軽トラの荷台で曜次はふんふんと鼻歌を歌いながら、山への到着を待った。ふと、山のふもとに何かが見える。
「傑」
 緊張をはらんだ曜次の声に、傑が反応した。傑も軽トラの荷台で立ち上がると、じっと山の方を見つめて、それから「飛び降りよう」と言った。
「あれはきっと入り口だ。あそこから入ったらおそらくあの山から出れなくなるんだろう。入るタイミングは私たちで決めるべきだ」
「おっけー、じゃ飛び降りますか」
 軽トラの荷台でそこそこ大きな声でそんなことを話しているというのに、軽トラの運転手からは何も反応がなかった。聞いているのか聞いていないのか、聞こえているのか聞こえていないのか、それともここまできたらもう運転手は要済みなのだろうか。そもそも生きた人間なのかもわからなかったが、呪霊の気配だけはしなかったので、運転手に関しては放置することにした。
 軽トラから飛び降りるタイミングは、鳥居に軽トラが乗り込む直前だ。二人は目で示し合わせて、それっと一息に走っている軽トラから飛び降りた。さほどスピードが出ているわけではないので飛び降りるのは難しくない。着地してから勢いを殺すようにごろんと転がって、鳥居を目前にして、二人は山道に転がり出た。軽トラックはそんな二人のことなどおかまいなしといった様子で鳥居の中に入っていく、そして鳥居の境目に入った途端、トラックはすぅ、とその姿を消してしまったのだ。はた目に見る限りはごく普通の鳥居だ。鳥居の向こうにもおかしい物はない。だがトラックは鳥居を境にして消えてしまった。やはり何かあるのだろう、傑の見立ては正しかった。
「どうする?」
「トラックから降りたとはいえ行くしかないだろうね。ここを正常化するまでどちらにせよ我々も外には出られない」
「じゃ結局この怪しい怪しい鳥居に入るってことか。仕方ない」
 曜次は刀が二口、腰にぶら下がっているのを確認してから、鳥居に手を伸ばす。
 すると不思議なことに鳥居の境にはふわりと湯に手を突っ込んだような感覚があった。
「おっ本当に境界線だ。わかりやすいな」
「同時に行くか、別々に行くか、だな」
「手つないで同時に行こうぜ。もしかしたら毎回飛ばされる場所が違うかもしれない」
曜次にしては賢明な意見だね。そうしよう」
「俺にしてはってなぁに?」
 傑は曜次の言葉をさらりと無視して、曜次の方に手を伸ばす。曜次も迷うことなく傑に手を伸ばした。二人は鳥居の前で手をつないで、そしてせーの、で鳥居の中に足を踏み入れた。体が湯に放り込まれたような暖かな感触。息ができないわけではない。一瞬目前が真っ白になったが、すぐに夜の山道に戻った。
「あれ?」
「わりと普通だったね、何か仕掛けがあるものかと思っていたけど」
「いやでも戻れないよこれ」
 曜次は今度は逆側から鳥居の境に手を伸ばす。先ほどはするりと手が抜けたはずなのに今度はまるでブロック塀でもあるかのように先へ進めなくなっている。なるほどこれが入り口というわけだ、と曜次が納得していると、傑は険しい表情をする。
「どしたの」
「いや、嫌な気配がするなと思ってね」
 眉を寄せる傑に、曜次も同じように気配を探るように目を瞑った。山全体が不穏な気配が包み込んでいるようだ。明らかにいる。これだけの広大な領域を展開できる何かがいることがはっきりとわかる程に、その気配は濃厚で、吐き気がするほど気持ち悪かった。
「あー……これは特級だね」
「……だろうね」
 山はわずかな月明かりに照らされてはいるものの、ほとんど真っ黒に染め上がっていた。そしてそこに充満する気配は明らかに特級以上の呪霊のものだ。今から考えるだけで嫌になるが、傑と曜次はこれからこの呪霊と何とかして折り合いをつけないといけなかった。
「取り込む?」
「可能なら」
「じゃあそのつもりでやるか」
 曜次は大きく背伸びをして、体をほぐす。傑が取り込む、ということは、曜次が特級を祓ってしまっては意味がない。傑が呪霊を取り込むには傑自身が対象を調伏しなければならないからだ。曜次はその手助け、といったところだろう。
「行こう、傑。俺懐中電灯持ってるから前な」
「そうだねそれじゃあ行くとしようか」
 曜次の言葉に傑は頷いて、二人は早速山道を歩き始めた。道は一本しかない。招かれているようで癪に触るが、この道を外れればこの不気味な山で迷子になることは確実だった。そんな愚は犯したくないというのは傑も曜次も同じ意見だったので、結局二人は素直に、前に引かれた山道を歩いていくのだった。

 月がこうこうと暗い山を照らし出している。木々に覆われた山道は、いくら月が明るくとも暗く湿っている。駅から見た山の輪郭は小さかったが、いざその山に踏み入ってみると、暗闇がどこまでも続いていくような気がした。しかし道は意外にも整っていた。まるでこちらへこいと誘い込むように丁寧に舗装された道は山の暗さと相まって不気味な雰囲気を醸し出している。
 この先に何があるのか、曜次は考えたくもなかったが、仕事である以上、踵を返して帰るわけにもいかない。曜次はため息を吐いて手に持った懐中電灯をくるくると手の中で回した。
曜次、足元が見えないよ」
「もー傑も懐中電灯ぐらい持ってきてよ」
「こんな暗い場所が任務先になるとは思っていなかったんだから仕方ないだろ」
「術師に懐中電灯は必須科目です」
「帳は光を通すからね、こんなに暗くはならないし」
「言い訳ッ」
 曜次は後ろを振り向いて言ったが傑は肩をすくめるだけだった。
 そうこうして騒がしく山道を進んでいった二人だが、思っていた以上に傾斜が急な上、なかなか呪霊の元へ辿り着かない。軽トラから飛び降りたのは早計だったか、と思い始めたころ、急に道が開けて大きなくぼ地のような場所へ辿り着いた。
「おっ」
「これはこれは」
 負の気が充満している。呪霊は明らかにここにいた。くぼ地に姿は見えないが、このくぼ地には安易に足を踏み入れてはいけないことは確かだ。
「どうする?」
「……一人がくぼ地に入ってもう一人は現状把握のため待機、がセオリーかな」
「だよなぁ……うーん何が起こるかわかんないし、見学は傑に任せる。俺は、俺なら何が起こってもなんとかなるだろ」
 がしがしと頭を掻きながら、曜次は腰にぶら下げた刀に触れた。鞘をなぞり、柄に手をかけると、すらりと刀を鞘から抜く。そしてゆっくりとくぼ地の中に踏み込んだ。
曜次、スマホ」
「ああ」
 くぼ地は広い。一般的な小学校の校庭ほどはあるだろう。曜次もそれなりに気を張り巡らして、何が起こってもいいように慎重に足を進めていく。傑に言われた通り、スマホは通話状態にして、会話も聞こえるようにした。電波は遮断されていなかった。この領域の特性なのか、はたまたこの罠にさらなる犠牲者を引き込むための罠なのかはわからなかったが、とにもかくにも、電話が通じるのはありがたい。くぼ地、といっても相当な面積があり、中央に行ってしまえば会話は大声でないと聞こえないだろう。
 呪霊は確実にこのくぼ地にいる。今回は三人(傑と曜次と、駅舎に残してきたサラリーマン)も飲み込んだのだ。嬉々として出てきてもいいようなものだが、曜次がくぼ地の中央あたりまできても、呪霊の姿は見えなかった。
 ふと足元で音がする。
 ぽこ、ぽこ、ぽこ、ぽこ
 足元の土が盛り上がり、土が割れ、その隙間から出てきたのは植物の芽だ。くぼ地全体で同じことが起こっている。曜次はぐるりと周りを見回したが、植物がどんどんと成長していくほかに何も見えない。
 はじめは芽だった植物はやがて、葉を茂らせ、花のつぼみをつけて咲き誇る瞬間を今や今やと待ち望んでいるようだった。
 そのときふいに曜次の足を掴むものがあった。曜次は反射的に刀をそちらに向けてはっと気づく。それは人間だ。植物に全身を絡ませ、体から植物を生やし、ほぼ同化してしまった人間。目や鼻、口から花のつぼみが顔を出している。不気味なことこの上ない。当然のことだが植物に完全に寄生されたその人間は生きているはずがなかった。
 曜次は万が一の状態に対応するため、掴まれた足を振りほどく。もうこの人間は助けられない。術師かはたまた巻き込まれた一般人かはわからないが、間に合わなかった。そのことに心の中で謝罪をしながら曜次は刀を構えた。
「出てこい。もう隠れてる意味もないだろう。お前は俺を領域の中に引きずり込んだんだから」
 そうだ、この草花の生えるくぼ地は領域だ。
『ほ、ほ、ほ、威勢のよいこと』
 森の木々に反射するような不思議な音が空間に響き渡った。曜次はばっと上を向く。曜次のすぐ頭上にはいつの間にか、呪霊がたたずんでいた。視界の死角に入っていたわけではない。曜次が見逃したわけでもない。今まさにそこに現れたのだ。
『わらわは玉藻前』
「……特級か」
 曜次は頬を釣り上げてにやりと笑って見せた。相手の領域に引きずり込まれている以上、状況が不利であることに変わりはない。やはり二人で入らなくてよかった、と曜次は思いながら、刀を玉藻前につきつける。
「降りて来いよ、俺が相手してやるさ」
『その必要はない。わらわの【叢生酒池肉林】はお主を引き込んだ状態で完成しておる』
「なに……?」
 曜次の体がぐらりと傾いたのはその時であった。曜次は慌てて手を前に突き出しバランスを取ろうとするが、まるで酩酊したように体が自由に動かない。ふらり、ふらりと傾ぐ体を刀を地面に突き立ててなんとか立たせた。頭はいつの間にか靄がかかったように思考の邪魔をする。
 下を向いて曜次はふと気づいた。先ほどまではつぼみだった花が開いている。そしてはっきりと目にわかるほどに濃厚な花粉をそこら中にばらまいている。
(くそっ! これか!)
 このくぼ地に入った時点で、曜次の負けは決まっていたのだ。今までの術師も同じ罠にはまったのだろう。対象を酩酊させる花粉はやがて対象を眠らせ、花の養分とする。呪力を吸い取り、呪霊はさらなる力を得る。
 曜次は必死で眠気と戦っていたが、限界がくるのは時間の問題だった。膝から力が抜けそうだった。全身がふんにゃりと力を失って、眠りにつきたいと訴えている。ああ、だめだ、この眠気には逆らえないと曜次が意識を手放そうとした瞬間、ぐいっと体を引かれて曜次の意識が一瞬はっきりともとに戻った。
「……傑……」
「馬鹿な罠に引っかかったな。私も、君も。いったん引く」
「ああ」
 そういえばずいぶん前に傑に縮地の原理を教えた気がする。原理だけではわからない、と練習に散々付き合わされたが、その練習の成果が出たと思えば安いものだ。
 傑は息を止めて縮地で曜次のところまで来るとそのまま曜次の体を抱えくぼ地から飛び出したのだ。刀と曜次を抱えて、木々の中に飛び込む。枝葉が曜次の体をひっかいたが、その程度の痛みはなんでもない。傑と曜次はくぼ地からそこそこ離れた場所にたどり着くとようやっと一息ついた。曜次は今にも寝そうだったが、玉藻前を名乗るあの呪霊の攻略方法を伝えないまま寝るわけにはいかなかった。
 曜次は傑に地面に寝かせられ、体の上に刀を置かれた。この格好はまるで曜次が死んでいるみたいだ、と頭の中ではなんとなくわかるのだが、とにかく眠くて笑うこともできなかった。
「……」
「何かわかったか」
「……うん……あの、呪霊は、あの領域の中でしか力を、発揮できないんだと……思う……花粉が酒に似た効果を持つんだ……たぶん……ほんの少し吸い込んだだけでも……こうなる……だから」
「吸い込むな、というのは君を見ていればわかる。他には?」
「……ちょっと、考え……てたことが、あるんだけど」
「うん」
「ここ、は……いわゆる仮令領域……ってやつ、で」
「ケリョウリョウイキ?」
 聞きなれない言葉に傑は聞き返した。
「そう……ここ……きさらぎ駅を含めて……領域なんだ……」
「馬鹿な、こんな広大な領域、あまりにも広すぎるぞ」
「うん……だから……仮令領域……この、領域は……出入りを制限……するんじゃなくて……可能性を……必中にするんだ」
「可能性……」
「そう……ある一定以上の呪力を持っている……術師の可能性があるもの……そういったものを選び取って……きさらぎ駅という領域の中に閉じ込める、それで」
「山へいざなうのか」
 傑は合点がいったとばかりに声を上げた。
「そう、誰しも山へいくしかない……そこで玉藻前本来の領域……あれは叢生酒池肉林と呼んでた……んだけど……そこで獲物を待ち構える……叢生酒池肉林は誰でも、出入りができた……多分仮令領域の方に力を使っている、分、本来の領域の方は誰でも出入りができる……っていう縛りによって効果を上げないと……仮令領域に……力を持っていかれるんだと……思う」
「……私が曜次を助けに飛び込めたのもそのせいか。しかし仮令領域なんてよく知ってたな」
「俺の……家にも似たようなものがあるからね」
 曜次は眠気と戦っているのだろう。言葉がぽやぽやとしている。曜次はふー、と息を吐いて「どうする?」と傑に尋ねた。
「あの呪霊を倒さなければここから出れないからね。なんとか倒す方法を考えるよ。ただ私の手持ちだけでは現状を打破する方策は思いつかないのがもんだいだな」
 傑はため息を吐いた。
「……それじゃあ……逾白を連れていけ……」
「逾白を?」
 傑は曜次の言葉に驚いて聞き返した。
 逾白とは天野家に伝わる最初の刀にして最悪の呪具にとりついた付喪神だ。生まれは平安、両面宿儺の全盛期に両面宿儺を打破するため、初代天野曜次が打ったのが逾白であった。生まれた当時は二級だったが、とある事件を経て特級へと格上げされた。呪具としても、それにとりついた呪霊としても非常に厄介で人を選ぶ呪具であるため、第五十四代天野曜次、つまり今にも寝落ちしそうな、傑の目の前に横たわっている曜次が初めて蔵から出すことに成功したという。
「逾白には……傑の命令を聞くように言い聞かせてある……逾白がいれば……花粉を吸わずに……」
曜次?」
 曜次は目を閉じたまま動かない。慌てた傑が曜次の肩をゆすると曜次はゆっくり目を開いた。
「……朝?」
「いや、朝か夜かでいうならまだ夜だね」
「うーん……もう少し寝かせて……」
「わかったよ。もう寝るといい。逾白を借りていくよ」
「あいつ……すごく気まぐれだから……気をつけて……」
 もう曜次は自分でも何を言っているのかわかっていないのだろう。ほにゃほにゃとしゃべるとそのまま眠りに落ちてしまった。
 
 残されたのはすやすやと穏やかな寝顔で寝ている曜次と呪具・逾白とともに取り残された傑だ。
 寝ている曜次をそのままにしておくわけにはいかない。呪霊があの呪霊一体とは限らない。こんなところで無防備に寝かせておいて、帰ってきたら死んでいました、では話にならない。自分の呪霊を残しておいてもいいが、不安は残る、と傑が思っていると、ふわりと地面から湧き出るように呪霊が現れた。呪霊といっても曜次が支配下に置いている呪具・影鷹丸にとりついている呪霊だ。姿形はまるきり高専時代の曜次と同じでまるで鏡に映っている曜次を見ているような感覚に、傑の頭がくらりと揺れる。間違えるな、これは、呪霊だ。
『それなら俺がいるから問題ないよ、大抵の呪霊なら俺を見たら逃げるさ』
「……その言葉を信じてもいいのか?」
『疑り深いね。でもまぁ天野とは違うから仕方ないか。言っておくなら俺は曜次に絶対服従なんだ。曜次に調伏されたその日からね。曜次に逆らうことはできない』
「でも曜次の危険に目を瞑ることはできるだろう?」
『本当に疑り深いんだなぁ。確かにそれはできるよ。俺の役目は曜次の守護ではないし。でももし曜次がそんな形で死んだら俺も逾白もまたあのつまんない蔵の中に逆戻りだ。俺は蔵の中に居た時間は短いけれど、本当に退屈なんだぜ。だから俺を連れ出してくれた曜次に死んでもらうわけにはいかない。これでどう?』
「なるほど、利害の一致というわけか」
『人間風に言うならね。そういうことになる』
 それなら、と傑は頷いて立ち上がった。
「そういうことならば任せよう。ただし私は君を信用したわけじゃない。私は曜次じゃないからね。もしも曜次に何かあったら、容赦なく折るということを忘れるな」
『疑り深い上に嫉妬深いときた』
「何か言ったかな」
『いや何も』
 曜次はそんなやり取りが自分の頭上で行われているなどと露にも思っていないだろう。ぐうぐうと眠っている曜次はとても気持ちよさそうで、自分もつい一緒に眠りたくなる。高専生の頃は朝までゲームをして、任務の時間まで床でぐっすりと寝ていたこともあった。そんな懐かしい記憶がこっそりと傑の記憶の箱の中から覗いてきたが、傑はその箱に蓋をして自分が来た道を戻る。
 縮地を使ったのは良くなかったかもしれない。足がひどくしびれて一歩歩くごとに激痛が走った。だがあの時縮地を使う以外に選択肢が残っていなかったのも確かだ。普通に走ったのでは、あの花粉を吸いこんで、二人そろってあの花の肥しになっていただろう。間違ったことはしていない、と傑は思いながら、暗い山道を進む。
 先ほどのように道はなかった。だが自然とこちらである、ということが傑にはわかった。あの呪霊が手招きをしているようで気味が悪かったが、山道で迷うよりはましだろう。足の痛みは一歩ごとにひどくなったが、傑は極力気にしないことにした。この任務が終わったらまずは硝子のところにいこうと決めて、片手に握った呪具・逾白をちらりと見る。逾白は一向に姿を現す気配がなかった。曜次は逾白を持っていけ、と言ったが、逾白がどう傑に助力してくれるのかはわからない。わからないから作戦の立てようがない。これは困ったことになったかもしれないと思いながら、傑はついにあのくぼ地のところまでやってきた。呪霊はまだそこにいた。
『帰ってくると思っていたぞえ』
「それは、どうも」
『あの小僧は寝入ったか。さて、それならばこちらに呼び寄せたいものじゃのう』
 呪霊はくぼ地の中央にいて、それなりの距離がある。だというのに不思議なことに呪霊の声は傑の頭の中でよく響いて聞こえた。そして耳をすますとかすかに「ああ……」「あ……」と小さな声が聞こえる。恐らくはこのくぼ地の植物に飲み込まれた者たちのうめき声なのだろう。それはなぜか、ひどく傑の心をかき乱すものだった。このような任務は始めてではない。憑き殺した人間を操って戦わせようとする呪霊もいた。その時の方がもっと総毛だつ思いがしたものだ。この程度なんということはない。
 さて、どうしようか、と傑は思案する。花はよくよく見ると再びつぼみに戻っている。花粉を貯めている、といったところだろうか。今の状態なら踏み込んでも問題はなさそうだが、玉藻前の意思一つで花は綻び再び花粉をまき散らすだろう。足は今も痛みを訴えている。もう一回なら、縮地を使えないことはなさそうだ。だがそこから先が何も見えない。游雲で叩けばいい? あの呪霊はどれほどの強度を持っている? 武器は花粉だけか? 他に何かここから見えるものはないか? 疑問は尽きなかった。
 特級呪霊と戦うにあたって、事前情報があることの方が少ない。なぜなら、特級の情報を残せるだけの人間がいないからだ。だから特級呪霊と戦うには何も知らない状態で戦わなければならないのだ。だからよく観察をする。そして使えるものは何でも使う。傑はふと手に持った逾白のことを思い出した。自分が逾白を本当に使えるか、自信はなかったが、やってみる価値はあるだろう。
「逾白」
 そっと、囁くように口の中で呼び掛ける。
 すると刀の影がするりと動いて、人の形をとった。つんつんと跳ねそして長く伸びた髪、目の周りの飾り模様、狩衣のような衣装をまとった青年がいつの間にか傑の一歩後ろに立っている。
『お呼びですか』
 その声は傑の背筋をぞくりと震わせた。

20210302