灰原と七海が任務に向かって五日、
曜次が帰還して一日が経った。
曜次は絶対安静にと言われていたが、傷はほとんど治り、本人もベッドに寝ているのが暇なようでしょっちゅう起きだして刀を握っている。しばらくの間寝たきりだった分、体力が落ちているが、刀の冴えは変わらない。あとは体力が戻るのを待つだけだ。
傑と悟と
曜次は久しぶりに休暇が重なり、一緒に時間を過ごしていた。といっても高専を出てちょっと歩いた程度では店も何もないので、古びた休憩室で飲み物を片手にだべる他やることはない。だがそうしてすごす時間も久しぶりで、傑の心はとても穏やかだった。いつまでもこんな時間が続けばいい、そう思っていたそのときに傑の電話に任務へ行ったはずの七海から連絡があった。
『助けてください』
七海がそんなことを言うのは珍しい。しかし口調は切羽詰まり、緊張しているのが感じられた。電話口から漏れた言葉に悟と
曜次も緊張する。
「七海?」
『助けてください、このままじゃ灰原君が死んでしまう』
今にも泣きそうなと言えばいいのか、幼子が親にすがるような声を必死で絞り出しているようだった。電話はそれきりぷつりと切れてツーツーとビジートーンが流れるばかりだ。
「
曜次、悟」
「急ぐんだろわかってるよ」
悟は大きく伸びをする。だが事態はさらに変貌を見せた。休憩室に夜蛾が息せき切ってやってきたのだ。
「悟」
「先生ちょっとお……僕忙しくなりそうなんだけど」
「任務だ。灰原と七海に代わってM県K村に向かってくれ」
「はぁ?」
悟はサングラスをずらして夜蛾を見る。冗談で言っているわけではないらしい。
「これは上からの命令だ、悟はすぐにM県K村に向かい呪いを祓ってきてくれ」
「……七海と灰原は?」
「二人には帰還命令が出ているが、連絡が通じない。このまま応答がなければ二人は死んだものとして__」
「死んだものとしてじゃねぇよ! 今さっき七海から救援の連絡があったんだよ、先にそっちをどうにかするのが普通だろ!?」
「……悟、これは命令だ」
「~~ッくそっ!」
悟は休憩室の片隅に置いてあるごみ箱を蹴っ飛ばして休憩室から出ていく。
夜蛾が悪いわけではないのはわかっている。悪いのは自己保身しか考えていない呪術界の上層部だ。夜蛾は呪術界の上層部と実行部隊となる高専の生徒との間で板挟みになっているだけなのである。だから夜蛾を責めても事態が解決するわけではないことはわかっている。わかっているがそれで怒りが収まるわけではない。
悟がいら立ちをあらわにしながら立ち去ったのを見送ってから傑は立ち上がった。
「先生、私と硝子に外出許可をください」
「……七海と灰原のところへいくつもりか」
「はい。助けを求められました。放置することはできません」
「待って傑、それなら俺も行く」
「君はだめだ。まだ絶対安静だろう」
「最悪影鷹丸が戦える。自分の面倒は見れるし邪魔にはならない」
引き下がる
曜次に傑は渋い顔をする。
「……俺は何も見ていないし聞いてもいない。三年生が三人勝手に出かけた、それだけだ。学生だそういうこともあるだろう」
夜蛾はそれ以上何も言わなかった。実質それは行ってこいというのと同じだということを夜蛾もわかって言っているのだろう。傑と
曜次は顔を見合わせた。
「……すぐ準備する」
「私はすぐに出発できる。二人の任務先について調べておくよ、あと硝子も見つけないとね。ニ十分後に第三南門で待ち合わせにしよう」
「わかった」
夜蛾がいなくなり、傑と
曜次も去った休憩室はしんと静まり返っている。ほんの数日前にここで傑と灰原が会話をしていたことがまるで嘘のようだ。頼むから無事でいてくれ、と祈るような気持ちで傑は硝子を探した。時間が刻一刻と過ぎていくのがわかる。その一秒が七海と灰原を救出する境になるかもしれないことを考えると、冷汗が噴き出すのを止められなかった。
硝子は死体安置所でタバコをふかしていた。急に飛び込んできた傑に多少驚いたようだが、慌てず騒がずタバコをポケット灰皿に詰め込んで、何事もなかったかのように「何?」と聞いてきた。
「臭いがこもっているよ硝子。それより緊急の案件だ」
「
曜次に続いて? 次は誰?」
「七海と灰原だ。状況は不明、だが切羽詰まった声で連絡がきたことからそれなりに悪い状況、だと思ってくれ」
「……わかった。十分ちょうだい」
「……五分で頼む」
傑の言葉に硝子は少し口元をゆがめたが、はいはい、と答えて死体安置所の隅にある荷物をごそごそと漁りだした。硝子は解剖室か死体安置所で調査・研究をしていることが多い。そのため私物も大半の物をこの二つの部屋に置いているのだ。解剖セットを引っ張り出して簡単に荷物を詰めるまで、五分もかからなかっただろう。
「準備、できたよ」
「十分もいらなかったじゃないか」
「念のためってやつ」
「
曜次が第三南門のところにいるはずだ。彼を拾ってタクシーで現地に向かう。場所はM県B市K村というところだ」
「七海と灰原の任務だったんだっけ」
「本日付で担当が悟に代わった。それだけまずい案件だってことだろう。七海からの連絡は要領を得なかったが問題が起きていることは確からしい」
「ちょっと待って、
曜次も連れて行くの? 絶対安静だって言ったよね」
「本人が行くと言ってきかないんだ。
曜次には影鷹丸があるからいざとなっても自分の身は守れるし、戦力にもなる。七海が電話してくるほど切羽詰まった状況というのなら、硝子に危険が及ぶかもしれない。それなら
曜次がいた方が安全だ」
「また傷が開いても治さないよ」
硝子は唇を尖らせて言ったが、そう言いつつも結局は治すのが硝子だ、長い付き合いになったのでそれぐらいのことは傑にもわかるようになっていた。
二人は外出許可もとらずに寮からそっと抜け出して第三南門を目指した。そもそも呪術高専は面積のわりに人が少ない。日常的に行動する圏内はそれなりに人が集まっているが、こうして敷地の端っこに出てしまえば、ほとんど人と会うことがないので、外出をとがめる者もいなかった。
「傑、硝子遅いよ」
「悪い、急ごう、タクシーは?」
「もうさっき呼んだ」
「
曜次……君成長したな」
「俺のこと馬鹿にしてる?」
いやそういうわけじゃないけど、と言うとそれならまぁ、と引き下がるあたり人の心を推し量る訓練が足りないとは思うが、それでも一年の頃より
曜次はずっと感情を表に出すようになった。一年の頃はにこにこと笑っていながらも、それは表面的なもので、内面では何も感じていなかったのだ。それが傑と出会い、悟と話し、硝子と遊ぶことで徐々に本心を見せるようになった。それは
曜次の大きな成長だろう。それができない環境にいた、というのは問題かもしれないが、高専に来たことで
曜次は確かに成長している。今だって、昔なら傑に任せっぱなしだった外出も、こうしてタクシーを呼ぶ程度の配慮ができるようになっている。その度に傑は
曜次の成長を感じるのだが、本人は昔からこうだと思っているのでなかなか性質が悪い。
タクシーが来るまでの間三人は沈黙していた。何を話しても、楽しい話題にはなりそうにない。傑の耳には切羽詰まった七海の声がいまだに残っている。急いでいかなければ、という気持ちが強く、気持ちの強さは焦りを呼び、焦りは苛立ちに代わった。とんとんとんと足で地面をたたく。この時間がもどかしい。
タクシーがやってくると三人は荷物を荷台に投げ込んで早々に後部座席に入り込んだ。M県まで、と告げるとタクシーの運転手は驚いたように「高くなりますよ」と言ったが「構わない」と傑は答えた。タクシーの運転手は明らかに学生らしい三人を見て、本当に金が払えるか不安になったようだった。傑はそれを察知して、先に財布から十万円を取り出してタクシーの運転手に渡す。
「急いでほしい、緊急なんだ」
「わかりました」
運転手は前払いを受けたことで素直に態度を変えた。タクシーは少しバックしてから、静かな駆動音で走り始めた。高専の車もなかなかいいものだが、タクシーも舗装の悪い高専の道路でもほとんど振動を感じさせないほど良い車だった。つづら折りの坂道を下って、高速道路に入り、タクシーはできる限りの速度でまっすぐにM県に向かう。
曜次は窓際の席ですとんと眠りに落ちた。本人は動いているが、本来ならまだ安静にしていなければならないのだ。それを無理に動いているようなものなので、傑は寝てしまった
曜次を特に起こすようなことはしなかった。
「硝子も眠かったら寝てていいよ」
「ん、大丈夫」
硝子は
曜次と傑の真ん中に座っているが、どちらに寄りかかるつもりもないようだった。荷物を膝の上に乗せて背もたれに背を預けている。
誰もしゃべろうとはしなかった。タクシーの運転手もただならぬ気配を感じたのか、普段なら饒舌な口をしっかりと閉じて運転に集中している。傑も窓の外を見ながらじっと押し黙っていた。
六時間ほどタクシーが走っただろうか、ようやっとM県に到達すると、そのままB市K村に向かってもらう。しかし現地に詳しくないということで、タクシーの運転手は現地のタクシーを呼んでくれた。残りの代金を払って、傑たちは新しく来たタクシーに乗り込む。B市K村というとタクシーの運転手は嫌な顔をした。
「いやね、別に行きたくないってわけじゃないんですけどね……K村はあんまりいい噂は聞かないもんで」
「何か、あるんですか?」
「そもそも排他的な村なんですよ。外部の物を受け付けないっていうか、かなり拒絶するというか……だからB市の人ならだれもK村には近づきたがらないんですよ」
私も含めてと運転手は言う。
「なので途中まではお送りしますけど、山道に入ってからは車も通れないし案内できないですよ、それでもいいですか?」
「それで大丈夫です。山道は歩きなれているので」
「そうですか」
運転手はあまり三人に関心がないようだった。それだけ言うと前を向いて運転を始める。静かな運転だった。
K村に続く山道まではそう長くかからずに到着した。ここまでです、ここから先はこの山道に沿って行けば着けるんで、とそれだけ言うと運転手はタクシーを走らせて行ってしまう。傑たちは荷物を背負いなおして山を登り始めたが、
曜次が村までの途中で別の残穢を見つけたのだ。
「こっちだ」
「
曜次、先に村に行ってから」
「いや、これ雄と健人の残穢じゃないか?」
「……本当だ、よく気づいたな」
「血がついてる。多分俺たちが来ることを見越して残穢をあえて残していったんだ。行ってみよう、村の方は悟がなんとかするだろ」
「そうだね、確かにこっちの方が気にかかるね」
三人は山道を外れて道なき道を歩いていく。そうすると山中に、木々に隠れるように小さな小屋が建てられていることに気づいた。苔むした山小屋はひどく不衛生に見える。山小屋の周囲には奇妙な石積みがあった。それが結界術の基盤であると、三人にはすぐに分かった。
「七海? 灰原、いるのか?」
傑があまり大きくない声で声をかけると、がさりと何かが動く音がする。小屋の向こう側から姿を現したのは七海健人だった。七海は目に見えてやつれており。ここ数日間寝ていないことがはっきりとわかる。それほどまでに憔悴していた。
傑は荷物を放り出して七海に駆け寄るとその肩を叩いた。
「遅くなってすまない、七海。何があったか話してくれ」
「……産土神信仰、あれは土地神、一級クラスの呪霊だった……灰原君が食われたんです、私をかばって」
ぽつりぽつりと七海はかすれた声で話す。
「灰原は?」
「小屋の中に閉じ込めています。灰原君の中に呪霊が巣食って、暴れている。今は静かにしていますが、扉を開けたら」
そこで七海はぶるりと体を震わせた。
「い、いつここが本体に見つかるかわからなくて、結界を張ったんですけどそれもいつまで持つか」
「大丈夫だ、任務は悟が引き継いだ。私たちは七海と灰原を助けに来たんだよ」
傑がそういうと七海はほっと溜息を吐く。そしてがくんと膝から落ちた。
「
曜次」
「わかってるよ、こんなに濃い気配は久しぶりだ」
「俺が行く」
「
曜次、それは無茶だ」
「小屋の中だろ、接近戦は俺の方が得意だ。なんとか外に誘い出してみるから外に出たら傑に任せる」
「……わかった」
傑はふー、と息を吐いて答えた。
曜次は刀を抜いた状態でじりじりと小屋に近づいていき、足で蹴飛ばして小屋の扉を開けた。その瞬間小屋の中で暴れまわっていた呪霊がぴたりと静止し、
曜次の方を向いた、そんな気がした。
小屋の片隅で灰原が床板の上に寝ている。布団も何もない、寝ているだけでも硬くて痛いだろうに、それ以上に灰原の腹部から伸びる影が異様だった。
灰原の下腹部から影のような棘が無数に飛び出ている。核は灰原の中にあるようだ。呪力の核を探すのが苦手な
曜次にもわかるほど濃厚な呪いの臭い。それはひどい悪臭で、今にも吐き出しそうになるのをこらえてぐっと刀に力を入れる。呪霊が動いたのと
曜次が動いたのはほぼ同時だった。
小屋の中に吸い込まれるように
曜次は踏み込む。影の棘は実体化して
曜次を襲う。
曜次はそのすべてを刀で斬り祓った。だが棘は核がある以上無限に生れ出てくるようで、
曜次がいくら斬っても一向に減る様子はない。
「
天野、さん?」
その時かすかな声がする。灰原の声だ。
「傑! 声をかけてやってくれ! 俺の時みたいに!」
「わかった、灰原! 助けに来たぞ、もう大丈夫だ!」
「夏油さん……七海は無事ですか」
「無事だよ、今は君のことを考えるんだ、意識を閉ざしちゃいけない、何かしゃべるんだ!」
傑の言葉に灰原は引きつった笑みを浮かべた。頬にもひどい切り傷があり、しゃべると痛むのだろう。だがそれでも無理をするように灰原は喋った。
「すいません、僕たちミスっちゃって、想像してたよりずっと強い呪霊だったんです。二人とも死ぬかと思って、それなら取り込む方が早いかなって」
ぼそぼそと話す灰原の言葉はひどく聞き取りにくかったが、傑は必死に聞いて受け答えをした。その間にも
曜次は呪霊の攻撃を全て防いでいる。表に引きずり出す予定だったが、どうやら呪霊は灰原の体の奥深くに巣くっているらしい。このままでは拉致が開かない。
「雄、ちょっと痛むぞ」
「はい……」
曜次はそう言って、カンとすべての攻撃を跳ね上げた。影の棘は天井に突き刺さり一瞬動きを止める。その間に
曜次は数歩の距離を詰めて灰原の体に刀を突きたてた。灰原が呻き血を吐く。
「灰原!」
「大丈夫だ、呪霊の核を突いた」
影の棘はみるみるうちに力を失ってその形を崩していくのがわかった。傑はそっと小屋に足を踏み入れて、何事もないことを確認する。
「硝子」
「はいはい」
わかっているとばかりに硝子は傑の脇を通って中に入る。そして灰原の傷を見ながら、すぐに反転術式に取り掛かった。だが灰原が硝子の反転術式が終わるまで耐えられるかは別だ。
硝子が切羽詰まった声を上げる。
「夏油!
天野! 人工呼吸! 灰原の呼吸が止まった! 急いで!」
「じ、人工呼吸? 俺やり方知らないよ」
「私が知ってる、問題ない!」
「わ、わかった」
傑の言葉に
曜次は一旦刀を鞘に納めた。そして完全に息が止まってしまった灰原の体の横に来て傑がやることをじっと見つめる。
胸を圧迫する。顎を軽く上げて、鼻をつまみ口から息を吹き込む。それを何度か繰り返したところで灰原は息を吹き返した。傷口が順調に治ってきているというのも大きな要因だろう。痛そうに呼吸を繰り返す灰原に傑は何度も声をかけてなんとか意識を保たせるようにするのだった。
「……生きてます?」
「生きてるよ、灰原。もうすぐ腹の治療も終わるから、そしたら顔も治してもらおう」
「ちょっとこき使いすぎじゃない」
硝子の方も軽口が叩ける程度には治療が進んだらしい。
「神経はほとんどやられてなかったからそんなに難しいことはなかった。ただ出血が多いからね、しばらくは絶対、安静」
最後の言葉を強めたのは
曜次に対する嫌味も含まれているのだろう。
曜次はさっと硝子から顔を逸らした。
「顔も治すよ、喋れる程度でいいね」
「はい、大丈夫です」
灰原の言葉はもうしっかりしていた。入り口で座り込んでいた七海もほっと大きなため息を漏らした。
「夜蛾先生に連絡しよう。心配していたはずだから」
「ここ電波届かないよ?」
「どの道灰原の迎えには高専の車がいい。
曜次、山を下りて連絡してきてくれないか」
「わかった」
曜次は承諾すると刀を腰に佩いたまま、小屋を飛び出して来た道を戻って行った。そして電波が飛び交っているところまでやってくると夜蛾に連絡を取り、事情を説明して高専の車を回してもらう。M県が京都校に近いということで五人は京都校へと向かうことになった。
清潔で衣食住が整った環境にたどり着いて、傑と
曜次の二人はようやっと息を吐いた。緊張していた間どうやって呼吸をしていたのかわからないぐらい切羽詰まっていたせいで、呼吸の仕方を忘れてしまったのかと思ったほどだ。
灰原の容体は安定しており、このまま安静にしていれば問題なく復帰できるだろうとのことだった。これには七海も安心したが、この件をきっかけに七海は呪術師について深く考え直すようになったようだが、それはまた別の話である。
この後東京校に戻った悟を含めた六人のうち二人、傑と
曜次は学生のうちは必ずツーマンセルで行動しできれば片方は準一級以上と同行する制度を作るよう連名で要望を出したのだった。学生の段階で一級術師に昇格する者は少ない。つまり要するに学生のうちは学生同士ではなく、すでに卒業している一般の術師と一緒に仕事をさせるべきだと言っているのだが、その要望は却下され通ることはなかった。呪術界はいつでも人で不足なのだ、学生にばかり人員を裂いてはいられないということなのだろうが、それでは今回のような事件が再び起きかねない。今回は運よく助けることができたが、次がどうかはわからないのだ。その判断に不服な傑はしばらくの間不機嫌な表情が直らなかった。
20201004