ヨゴトノリトのパラドクス

失踪弐

 天野曜次が失踪してから何度か捜索隊が結成され、任務地である山を中心に大規模な捜索が行われた。通常それだけの規模の捜索隊が消えた術師一人のために用意されることはほとんどない、それはつまり天野曜次を殺して事実を曖昧にしてしまいたいという誰かの意思がすり抜けて見えるようだった。傑にはその事実が気に入らなかった。何度も捕まりませんようにと祈ったが、その祈りが通じたのか、はたまた曜次の能力なのか、幾度も行われた捜索で、曜次の存在はふっと消えてしまったかのように見つからなかった。
 傑は傑で独自に任務を調査し、曜次の任務先を知った。主に有田という補助監督からの情報が多いのだが、有田は同行した任務で術師が行方不明になり、ここまで大事になるのは初めてのことなのだろう。有田は顔を真っ青にして当日の曜次の様子や任務先について話をしてくれた。傑はそのことに感謝して、早速任務先に向かったのだが、そこで見たものは傑が想像していたよりもずっとひどいものだった、
 傑は曜次の任務先である過疎地の村に足を運んだのだ。そこでは術師をはじめとする部外者に対する憎悪が渦巻いていた。狭い集落だ、よそ者が入ってくればすぐにわかる。排他的なその村はどこに行っても異臭がして、そして傑のことをひそひそと遠巻きにしながらついて離れない村人が煩わしかった。傑に向けられる嫌悪感はそれはもうひどいもので、一刻も早くこの場を立ち去りたいと思ったが、曜次の痕跡を見つけるまでは帰るわけにはいかない。傑は必死で曜次の残穢を探したが、もともと呪力の少ない曜次の残穢を見つけることはできなかった。その代わりところどころで影鷹丸(曜次が普段から使っている呪具)の残穢は見受けられた。それは焼け落ちた建物の中に続いており、今にも崩れそうなその建物の中で色濃く残っている。
 なぜ焼け落ちた建物の中で影鷹丸の残穢がこんなにも色濃く残っているのか? 他の呪霊の残穢も見受けられる。しかも相当な力を持った呪霊の残穢だ、これを補助監督や山狩りの人間が見逃すはずもない。曜次はここで戦ったのだ。そしてどのタイミングかわからないが建物には火が放たれた。これは証拠隠滅のためであると考えてもいいだろう。
 村人には死んだという村人と対面させてほしいと要求したが、それは叶わなかった。鎌を振り上げて威嚇する村人に傑は冷たい視線を向け、村を去る。村で得られたものは少なかったが、傑は一つの確信を得る。曜次は村人を殺してなどいない、曜次はあの村で村人たちに裏切られはめられたのだ。間違いない、そんな確信じみたものが傑の頭を駆け巡る。
 村は調べることだけ調べて早々に後にした。長いこといても村人から話は聞けないし、残穢も調べても影鷹丸と呪霊以上のものは見つからない。森のぎりぎりまでは跡を終えたが、それ以上先にとなると、影鷹丸の残穢はぷつりと途切れてしまい香りすら感じられなくなってしまった。(高等な呪霊の残穢は香りを伴うことがある)それっきり行方不明だ。
 傑はどのようにして夜蛾にかけあうかを考えながら村を後にし電車に乗り込む。がたんごとんと揺れる電車は二両しかなく、乗客はほとんどいなかった。高専の真っ黒な制服はよく目立ち、乗客からじろじろと見られたが傑はあまり気にしないことにした。
 曜次はどこにいったのだろう。彼の実力からしてそう簡単に死ぬことはないと思う。だけど万が一のことがあったら? 先に捜索隊が曜次を見つけてしまったら? 高専に帰ったらいつものように曜次が笑って迎えてくれればいいのに、なんて都合のいい妄想を祈りながら、傑は高専へ帰った。当然だが曜次はいなかった。
 それからの日々はひどく心苦しかった。
 非術師が術師を受け入れようとしないのは今に始まったことではない。力のない者を力がある者が守るのが当然のことだと思っていた。だが星漿体の任務から続く様々な出来事や、悟や曜次と話す時間が大きく減ったことは傑の心を摩耗させていた。救いの言葉の一つもなく、ただ毎日のように呪霊を食らう日々。そんな中で曜次の失踪はそうでなくとも軋んでいる傑の気持ちをさらに暗くさせる。
 そんな中出会ったのが九十九由基だった。彼女は特級の術師でありながら、高専からの任務を受けず世界中を放浪している。彼女は呪霊に対して対処療法のように祓うのではなく、原因療法として呪霊のいない世界を考えていた。それは傑も頭の片隅で考えていたことであり、彼女との会話の中で、ぽつりとこぼした「非術師を殺せばいい」というのは傑の本音であったと思う。九十九由基はそれを一度は肯定した。そんな九十九由基の態度に傑は逆に慌ててしまうが、非術師を皆殺しにするというのは彼女も一度は考えたことがあるらしい。だがそこまで狂っていなかった彼女は、最終的にはその方法を否定するのだった。
 そんな九十九由基に傑はぽつりと本音をこぼした。非術師を守ると決めた自分、非術師の存在が許せなくなっている自分、果たしてどちらが本音なのか、と尋ねた傑に、九十九由基は答えを与えなかった。
 九十九由基が早々に去って、傑は自販機の置かれた休憩室で、一人考える。自分は結局のところ誰かに肯定してもらいたいのだろうか、と。曜次なら何というかな、なんてことを考える自分に笑いがこみあげてくる。自分のことは自分で決めて進んでいるつもりだった。だがこうして分かれ道に遭遇するとどちらを選んでいいのかわからなくなる。九十九由基との会話で余計に自分が選ぶべき道がわからなくなったような気がした。
 結局のところ自分で自分のことも決められないのか、と自嘲する。だが坂を転がるように闇へと向かっている自分を止めてほしいという気持ちも少なからずあった。こんなとき曜次ならなんと言ってくれるのだろうか。彼はあれでいてやることをはっきりと見定めているので迷うことはないのだろう。ああ、彼は本当にどこへ消えてしまったのだろう。
 休憩室の椅子に座ってぴくりとも動かずに思考だけを回す。
 誰も来ない片隅の休憩室で携帯を片手にただひたすら考えていた、その時だった。ぶーぶーと携帯が震える。びっくりしてあやうく携帯をおとすところだったが、なんとか握り込んでホーム画面を見た。
曜次……!?」
 メールは曜次からだった。タイトルはなし、本文には数字が並んでいる。
 傑はまず曜次からのメールにほっとし、次に疑った。これは本当に曜次からの連絡なのだろうか? 彼も携帯を持っているはずだから、こんな暗号じみた何かを送るよりも助けを求めた方が早いのではないか? いや逆に呪術高専に助けを求めることが困難であることを理解しているのだろうか?
 一瞬のうちに傑の頭の中で様々な状況が思い起こされる。そもそも発信者が曜次でない可能性も考えたが、それだったら普通にメールを打ってもいい気がする。となるとこの発信者は曜次で間違いなく、曜次であるということになる。次に問題になるのはこの数字の羅列だ。何かを意味していることは確かだが、傑にはぱっと思いつくものがない。
 休憩室の中をぐるぐると歩き回りながら傑は思案する。最近の曜次の行動、数字の羅列、そして自分の携帯に送られてきた意味。
 必至で考えていたせいで、周囲に気を配るのを完全に忘れていた。
「あ! 夏油さん!」
「灰原……」
「お疲れ様です!」
 元気よく受け答えする彼には迷いなど内容に見えた。
 手に持った携帯をすっとズボンのポケットに押し込んで、何か飲むかと尋ねると、遠慮しつつも「コーラで!」とはっきり言う灰原は、どこか曜次と似ている。いや曜次の方がもっと図々しくて、いつの間にか人の心の中にするりと入り込んでそこであぐらをかいているのだ。それが救いであることを夏油傑は知っている。
「明日の任務、結構遠出なんですよ」
 休憩室に置かれた古い椅子は、座るとぎしぎしと軋んだが、何とか二人分の体重を支えてくれた。どこか古ぼけたバス停かはたまた田舎の駅を思い起こさせる休憩室で、夏油傑は灰原雄の話を聞く。灰原は傑が特段、何か返さなくてもぺらぺらとよくしゃべった。傑はうん、うん、と頷くだけでよかったので、疲弊している今、灰原と話すのはさほど苦痛にはならなかった。
 灰原はあこがれの先輩と一緒に話をできるチャンスをふいにしたくないので、ここぞとばかりに話をする。今まで行った任務のこと、これからのこと、同級生の七海のこと、後輩の伊地知のこと、話のタネは尽きることがない。
 そうしてしゃべるだけしゃべって「授業だ!」と立ち上がって去って行った灰原はもはや台風のような勢いだった。傑はそんな灰原に苦笑しながらも、今だに曜次から送られてきた数字の羅列について考えていた。
 休憩室は古くいまだに、公衆電話も置いてある。緑色のボディの公衆電話は携帯電話が流行っている今はほとんど誰も使っていないように見える。傑も昔何度か使ったことがある程度で、高専に入ってから使った記憶はない。そもそもこんなところに公衆電話があったのか、と思ったところで数字の羅列に思う浮かぶことがあった。
「公衆電話から、SMSを発信する方法」
 曜次はとにかく勝手に人の部屋に上がって、人のベッドの上でうんうんうなりながら本を読んだり、結論の出ない話に花を咲かせるのが好きだった。好きだったのか、単に傑だからそういうことをしたのかわからないが、とにかく休日がかぶったある日のこと、彼は豆知識の本を読んでいたことを思い出したのである。
「なぁ傑、公衆電話からSMSが送れるんだって」
「へぇ、初めて聞いたよ。今時公衆電話なんてほとんど使わないからね」
「試してみようぜ」
「今かい?」
「確か休憩室に公衆電話あっただろ」
 と、言うや否や曜次はぱっと起きて傑の部屋をでていってしまった。だだだだだ、と廊下を走る音が聞こえて、どすん、という音が遠くで聞こえたから階段を飛び降りたに違いなかった。曜次は急いでいるといつも階段を飛び降りる。向かいから人が来ていたら危ないからやめろ、と忠告するのはいつも傑の役目だった。
 傑の携帯に連絡が入ったのはそれから十分後のことだ。使い慣れない公衆電話に曜次は多少悩んだらしく色々と試していたらしい。ぶーぶーというバイブ音と共にメールが一通送られてくる。そこには数字が並んだよくわからないメッセージが入っていた。再びぶーぶーとバイブ音がする。今度はメールではなく電話だ。非通知になっている電話相手に誰だろう? と首をかしげながら出ると「届いた!?」と鼓膜を破りかねない勢いで曜次が耳元で怒鳴った。
「うるさいよ、届いた届いた。届いたから早く帰ってきなよ」
『うん』
 しばらくするとまた廊下を走る音が聞こえる。そしてがらがらがらと傑の部屋の扉が開いて曜次が飛び込んでくる。廊下を走ってきた勢いを殺さないままベッドに飛び乗った曜次は傑に携帯をせがみ、傑は携帯を渡してやった。受け取った曜次は楽しそうに携帯を開いて、自分が送ったメッセージを見る。
「ええっと、げ と う す ぐ る、と、ちゃんと送れてるな」
「そんなものを私に送ったのかい」
「だって他に思いつかなかったし」
 ああ、そういえばそんな会話をした気がすると夏油傑は思い出す。
 傑はすぐに立ち上がった。そして速足で曜次の部屋に向かうと鍵がかかっていないことを願いながら扉を開く。不用心なことに鍵はかかっていなかった。
 曜次の部屋は悟や比較的物の少ない傑の部屋と比べても殺風景なものだった。ものがないわけではない、なのに閑散としたイメージを持つのは生活感のあるものが少ないからだろう。
 例えば使いかけのマグカップとか。
 例えば角砂糖の入った瓶だとか。
 例えばベッドの上に広げられた洋服だとか。
 例えばしわくちゃになったシーツだとか。
 曜次の部屋にはそういったものが一つもなかった。本棚にはいくつか本が差し込まれている限りで余っているスペースの方が多い。ベッドのシーツはぴしりと整えられていて、いつもの曜次の行動からは考えられないほど丁寧に整理されていた。数少ない洋服もクローゼットにきれいにしまい込まれているので机の上には何もなかった。ペンの一本すら転がっていないのは男子高校生の部屋として少し違和感を覚える。断捨離や整理が上手いというよりも物欲に欠けるというイメージだ。
 以前天野曜次と言う人物は感情が薄いという話をしたが、これほどまでに生活感のない部屋を見せられると天野曜次と言う人物がっ実在したのかすら不安になってくる。だが今はそんなことについて考えている場合ではないことは確かだった。
 すかすかの本棚から、曜次が以前傑の部屋で読みふけっていた豆知識の本を取り出す。これもまたきれいなままで、折目も付箋もなにもなかった。買ったばかりと言われても疑わないかもしれない。
 傑は目次から該当するページを見つけてぱらぱらと本をめくる。そしてそのページを見つけると早速携帯に送られてきた数字の羅列の解読に入ったのだった。
「さ か な み と う げ……サカナミ峠か?」
 傑はすぐに自分の部屋に行き地図を広げる。曜次は徒歩で移動したと考えるとそう遠くまではいってないはずだ。任務先の村近くにサカナミ峠と呼ばれる場所があるはずだ、と目星をつけて三十分ほどだろうか、地図と格闘していると地図上に「逆波峠」という場所があることに気がついた。任務先の村からほどちかい今はあまり使われていない旧道のようだった。
 それからの傑の行動は素早かった。まず家入硝子に連絡して、誰にも気づかれないように自分のところに来て欲しいと頼む。その間傑はもし曜次がけがをしていたらということを考えて、想像できる限りの怪我に対応できる荷物を集めた。あれやこれやと集めているとボストンバック一つ分になったので、それを抱えて硝子を待つ。硝子は何がなんだかわからないままに呼び寄せられたので、少々不機嫌だったが、傑は何も説明せずに高専を出た。
「ちょっとどこ行くの?」
曜次のところだ」
曜次!? 見つかったの?」
「……」
「先生に言わなくていいわけ? 優等生」
「……少なくとも携帯は使えない状況で私にメッセージを送ってきた。緊急性が高いと思う。夜蛾先生に言って先に山狩りに見つかったら厄介だ、だから言わない」
「一緒に怒られるのは勘弁」
「大丈夫、硝子は私が脅したことにする」
「……はぁまぁいいやどこまでいくの?」
「N県のN町近くの逆波峠」
 傑は完結に答えると、高専の長い坂を駆け足で下り降りる。ほとんど荷物を持っていない硝子は、身軽なまま傑に続いた。
 高専に続くつづら折りの坂を下って、少しばかり人が多くなってきたところで手を上げてタクシーを捕まえる。そうしてタクシーと電車を乗り継いでN県N町にたどり着くと、もう一度タクシーを捕まえようとした。「ようとした」というのはなかなかタクシーが捕まらなかったのである。どうやら今はほとんど使われていない逆波峠には女の幽霊が出るという噂らしく、誰も行きたがらないのだ。日が落ち始めていることも原因の一つだろう。倍額を支払うからと頼んでもタクシーの運転手は首を縦に振らなかった。地図からして逆波峠まで歩いて行ける距離ではない。まして暗くなり始めたこんな時分に山登りなど狂気の沙汰だ。
 傑と硝子は仕方なく今日はN町で宿をとることに決めた。本当なら一刻も早く曜次の下へ駆け付けたい気持ちでいっぱいだったが、それができないなら仕方ない。日が昇ればタクシーの運転手の気も変わるかもしれない。それを願いながら二人は宿できれいなベッドに体を横たえた。想像以上の長旅に疲れ切った体はすぐに眠りに落ちた。
 次の日、駅前でなんとかタクシーを捕まえることができた。
「しかしお兄さん、あそこはねぇ、道もだいぶ崩れてるし、変なものが出るって噂だし、止めといた方がいいんじゃない」
 しかも女の子連れで、とちらりと硝子の方を見ながらタクシーの運転手は言った。
「逆波峠の一番高いところで降ろしてくれればあとはなんとかするんで」
 傑は譲らなかった。そんな傑にタクシーの運転手はため息を吐いて車を発進させる。
 ほとんど振動のない穏やかな旅だった。かすかな振動に身を寄せながら、傑と硝子は無言のまま流れていく景色を眺める。タクシーの運転手からすればこれほど奇妙な旅人はいないだろう。恋人にも見えないかといって浮気かと言われるとそうでもなさそうだ。友人? 同級生? はたまた先輩と後輩? 様々なことを考えるが、話をしようとしない二人の乗客に話しかけることなく車は逆波峠へとたどり着いた。
「本当にここで降りるのかい、何もないよ」
「いいんです、ありがとうございました」
 傑は料金をしっかり払って、タクシーを見送る。
「さて、と」
「こんなところに天野がいるわけ?」
「私のところに来たメールによれば、ね。でも曜次がどういう状況で私にメールをしてきたのかわから……誰だ!」
 傑は太ももに括り付けた小型のナイフをさっと引き抜いて突如現れた気配に投げつけた。
「あぶな」
 木立の間から現れたのは一人の男性だった。いやまだ少年と言った方がいいかもしれない。体つきは華奢で、骨ばっていて、全体的に小さい。
天野?」
「いや曜次じゃない、影鷹丸だな」
「当たり」
 影鷹丸とは曜次が普段から身につけている刀の呪具のことだ。一級に相当するその呪具は付喪神が宿っており、その付喪神は気まぐれに姿を現す。そして姿を現すときは必ず少し幼い頃の曜次の姿で現れるのだった。
 姿かたちは曜次にそっくりだ。だが曜次はそんな風には笑わない。
「こっちだ」
 影鷹丸は案内するように背を向けた。硝子は一瞬迷ったようだが、傑には迷いはなかった。ボストンバッグを抱えなおして「行こう」と硝子に声をかける。その声に観念したのか硝子も「はいはい」と言いながら傑について森の中に入っていった。
 道中、影鷹丸は一体何があったのかかいつまんで説明をしてくれた。
「地図には載っていない村の呪霊の調査と祓除が本来の任務だった」
「土地神が特級呪霊になっていることを確認した。その場で帰ってもよかったが曜次は祓うことにした」
「呪霊の被害が村民に及ばないよう、今はもう使われていない建物の中に呪霊を追い込んだまではよかった。呪霊はなんとか倒したんだ、だが建物に火が放たれた」
「火?」
「村人の仕業だよ。もともと歓迎されてなんかいなかったんだ。村を嗅ぎまわるうざったい術師とでも思われていたんだろう。初めから焼き殺すつもりだったんだよ」
「逃げ道をふさがれて、曜次は強行突破することに決めた」
「けど、建物の周りを取り囲んでいた村人にけがを負わせられた。その前に特級呪霊と戦っていたから曜次はもう気力だけで立っている状態だったんだ」
「傷を負いながらも村から逃げ出すことはできた、だけど傷口が悪化して動けなくなった」
「病院に連れて行こうとしたが、本人が拒否」
「極度の人間不信に陥っている」
「今は山奥の使われていない小屋に隠れている。人払いの結界を張ってね」
「傷はもう限界だ。自力で治癒できる状態を超えた。蛆が沸いている。だからあんたを呼んだんだ」
 一通り話を得ると影鷹丸はため息を吐いた。
曜次が人間不信になったのはあんたのせいだ夏油傑」
「私?」
「そうだ、あんたに会う前の曜次は何かに心動かされる、精神を揺さぶられるなんてことはなかった。だから強かったのに」
 今まで口を閉じていた硝子が初めて口を挟む。
「つまり夏油が天野の心を動かしたってわけ?」
「……」
「麗しい同族愛だね、で天野はどこ」
「あの小屋の中だ」
 緑が茂る森の中はとにかく歩きにくかった。木々をかき分け、道なき道を歩いていく。
 影鷹丸の案内の先にあったのは、もう使われなくなって随分長いことが経つだろう掘立小屋だ。木の壁はところどころに隙間があり、風が吹き込むたびにぴーぴーと音を鳴らしている。小屋に近づくとひどい悪臭がした。
「傷口が腐ってきているんだ。痛みで意識が朦朧としている。夏油傑から声をかけてくれ」
「私から?」
「そうだ、まだ耳は聞こえる、っぽい」
 傑はボストンバックを地面に置いて、小屋の入り口に立つ。
 声をかけると言ってもなんと言えばいいんだろう。傑はしばらくの間迷っていたが結局名前を呼び掛けることにした。
曜次
「…………すぐる……?」
 たっぷりと時間をおいてかすかな声が聞こえる。
 声の主は確かに曜次だった。聞き間違えることはない。
「そうだ、私だよ。硝子も連れてきたんだ。君の傷を治すためにね」
「そうか……」
 曜次の言葉には覇気というものが欠けていた。気力だけで声を絞り出している、そんな印象を受ける。
 軋む扉を開けて中に入ると、懐中電灯で照らされてやせ細った曜次が照らし出された。
曜次
 傑は悪臭をものともせず小屋の中に入り、最後の力を振り絞るようにして伸ばされた曜次の手をとった。ひどく冷たい。
 硝子は腐臭に顔をしかめながら、傑に続いて小屋の中に入る。
「夏油、傷口照らして。先に蛆取り除かなきゃ」
「わかった」
 傑は懐中電灯の光を腹部に当てる。
 腹部はひどい状態だった。傷口が露出し腐り、そこに蛆が頭を覗かせている。硝子が少し触れると蛆は一斉に頭を肉の中に潜らせた。曜次はもう痛みも感じないのか、はたまた痛みを感じても暴れる気力がないのかただ静かに横たわっていた。
 傑の明かりを元に、硝子は一匹ずつ蛆を取り除いていく。床に捨てた蛆はうごうごと動き回っていたが、隠れる肉も食う肉もないとわかったのかどこかへ逃げようとした。それを放置してとにかく蛆を取り除いた。百匹はいただろうか。とにかく長い時間がかかった。そして蛆をすべて取り除き終わると、硝子は反転術式で治療を始める。
 硝子の反転術式を見たのは初めてのことではない。前に大きな傷を負ったとき硝子になおしてもらったのだが、何度見ても見事なものだ。硝子が傷口に手をかざすと、ちぎれていた血管や神経がしゅるしゅると伸びていく。それに合わせ腐っていた臓器も修復され、表皮も傷口を覆うように広がってきた。
「傑」
「大丈夫だ、ここにいるよ」
「見えないんだ、硝子、治るかな」
「治るんじゃなくて治すの。反転術式ってさ、もう戦場から退いてもいい人をもう一度強制的に戦場に送るんだ。そう考えると嫌な仕事」
「でも俺は戦場に戻りたいよ」
「はいはい口つぐんでて、舌噛んでも知らないから」
 硝子が処置を始めて時間にして一時間程度だろうか、すべての処置が終わると硝子はふー、と大きく息をついてその場に座り込んだ。
「反転術式って本当に疲れるんだから」
「悪かったよ硝子、ありがとう」
 曜次の腹部には少し大きめの傷跡は残ったがもう命の危険はないということだった。
 傑はボストンバッグの中から飲料水を取り出してそれを曜次の口に当てるとゆっくりと飲ませる。
 曜次は痛みがなくなったのか、呻きながら体を起こそうとする。
「まだやめておけ」
「高専に連れ帰る?」
「そうしたいが、曜次の体力がない。山を下りるだけ、いや、万が一に備えて刀を持つだけの体力はつけさせたい」
「ふぅん、まいいよ。じゃ私はこれで」
「ありがとう硝子」
「……先生には何も言わないからね」
「わかっているよ、私が何とかする」
 そうして硝子が出ていくと小屋の中はしんと静まり返った。
「……俺死んだことになってる?」
「いや捕縛命令は出ているけど死んだとは断定されてないよ」
「俺何日ぐらい行方不明になってたの」
「二週間ぐらいかな」
「あー……」
 曜次は間延びした声で答えた。
「何か問題があるのかい」
「いや二週間も行方不明になってたら、里では俺、死んだことになってるだろうなって思って」
「そうなのか」
 傑は少し驚いて聞き返す。
「里には常に当主が必要だからね。行方不明になったり死んだって思われたりしたら次の当主を立てるんだ。もし生きていればそれでよしで里に迎え入れられるだけだけどさ」
「そうか、てっきり本当に殺されるのかと」
 そんなことはされないよ、と曜次は笑った。まだ視線が定まらないが、呼吸も言葉も安定してきている。
「食料をそれなりに持ってきたんだ。どういう状況下わからなかったから、少しでも助けになればと思って」
「ありがとう」
「でも捕縛命令が出てるってことは、こんなところにいたらまずいんじゃないの、傑」
「まずいよ。絶対帰ったら怒られる。でも君が生きていたから別に構わない」
 傑は喉の奥でくっくっくと笑って言った。

 曜次が高専に戻ったのはそれから三日後のことだった。硝子は本当に何も言わなかったらしく、曜次から連絡があったのにもかかわらず勝手に抜け出して曜次の救援に向かった傑は夜蛾にこっぴどく怒られたのだった。
 曜次の件については、傑が不在の間に再度調査が行われ、曜次には非がないことが明らかにされたのだという。もし何かあれば高専を敵に回してでも逃げ延びて見せると覚悟を決めていた傑だったがどうやらその必要はなくなったらしい。
 そんな傑に曜次は曖昧に笑うのだった。まだ完全復帰とまではいかないが、もう心配はないだろう。

20201004