幾分伸びた身長は、一年近い歳月が流れたことを示している。夏の日差しが眩くこの世のことごとくを照らし出していた。
珍しく夜蛾から直接の呼び出しがあって、
曜次は職員室を訪れた。広い部屋の中にぽつんぽつんと島のように職員の机が置かれている。それぞれの机のそばには大きなロッカーやら棚やらがあり、数少ない職員の趣味や性格が見て取れた。
天野曜次の担任である夜蛾正道の机の周りはあみぐるみとぬいぐるみであふれかえっている。夜蛾は呪骸を専門とする術師なので、当然と言えば当然だが、その机と机周りの様々なものは異質な職員室の中でもひときわ目立っていた。
「失礼しまーす、
天野です」
「相変わらず時間ぴったりだな」
「五分前行動したっていいことないですもん」
「少しは心に余裕ができるだろう」
「俺の実家じゃ分刻みでやることが決まってるんで、五分前とか無理です」
「……まぁそこについて議論したいわけじゃないからそこはいい」
夜蛾はちくちくと針で作っていたぬいぐるみを、書類であふれた机の上に置いて、針をペン立てに差し込んだ。机の上は学生の進路案内やらこの間の試験の解答用紙やらがちらほら見える。そういったところは普通の学校と変わらず、なんとなく自分がどこにいるのか忘れてしまうような気がしてしまう。呪骸はきれいに並べられているが、机の上に物があふれているあたり、あまり整理整頓が得意ではないらしい夜蛾は、積みあがった書類の中から一枚紙を引っ張り出して
曜次に渡したのだった。
「今回は少し遠方の任務に行ってもらう」
曜次は紙を何度かひっくり返して、正しい位置に直すと任務の詳細を読み始めた。
「集落での変死・怪死が多発……これ一人ですか」
「ああ、お前ももう一級の術師だからな、補助監督の送り迎えはあるが、それ以外は基本的に一人だ。傑と悟も別の任務が入っているからな」
職員室はクーラーが効いていてとても涼しかった。クーラーの風が当たる位置にすすす、と
曜次はさりげなく移動して紙を見つめる。
「やだなぁ、クーラーとかなさそう」
「文句を言うな、仕方ないだろうこの時期はみんな忙しいんだ」
「わかってますって」
曜次は夜蛾からもらった紙をひらひらさせながら言った。
「話はこれだけです?」
「ああ、時間をとらせて悪かったな。十二時には補助監督が迎えに来るから急げよ」
「げっ十二時ってあと十五分じゃないですか」
曜次は職員室に唯一かかった古い時計を見てわっと走り出す。職員室で走るなと背中から声が追いかけてきたが、そんなことは無視して、部屋に飛び込むとすでに出来上がっている荷物に刀を添えて部屋を飛び出した。鍵を閉めるのを完全に忘れていたが、別段盗まれて困るものがあるわけでもなし、いいだろうと思って階段を駆け下りる。ぴょーんと高く跳躍して階段をすっとばし踊場に着地する。荷物があるせいで少々動きにくいのが難点だが、
曜次の運動能力があればそれもさほど問題にはならない。だが下から傑が上がってきていたのは
曜次にとっても想定外だった。
「あいたっ」
「いっ……
曜次、階段を全部すっ飛ばすのはやめろと言っただろう」
ごつん、と痛そうな音を立てて
曜次と傑の頭がぶつかった。傑は少し眉を上げて怒る。
曜次は慌ててごめんと謝り、傑の脇を抜けてさらに階段をすっ飛ばそうとして、ぴたりと足を止めた。
「傑」
「なんだい。任務なんだろう急いだほうがいいんじゃないか」
「うん、それはそうなんだけど、なんか悩んでることない?」
普段そんなことを言わないので、
曜次はこんなときにどんな表情をしていいかさっぱりわからなかった。ちょっとこっぱずかしくなってやっぱりいいや、と消えるような声で呟くとさらに階段をすっ飛ばして廊下の向こうに消えてしまった。
聞かれたことに答える前にその本人がさっさと消えてしまい、宙ぶらりんになった傑の心はぎしぎしと軋んでいる。
相談したいこと、考えていること、思っていること、それは傑の中で渦を巻いている。一年と半年余り前の任務で傑の価値観が大きく変わってしまった。どうしたらいいのかわからない。自分でいくら考えても、今までの自分と同じ結論が素直に口から出なくなってしまった。そんな複雑な思いを
曜次は見抜いていたのだろうか? それとももっと他のことを指していたのだろうか? と傑は思案するが、当然のことながら答えは見つかるはずもなかった。
「ああ……」
踊り場で一人取り残された傑の口からため息がこぼれる。悟も先に任務に行ってしまい、これから
曜次も任務に行ってしまうとなると、自分はしばらくまた一人きりだ。一人になると思考はどんどんと悪い方向に転がっていく。誰かに話した方がいいのだろうか、とも傑は思ったが、口に出せるほど自分の心がまとまっていなかったから、何を言えばいいのかもわからなかった。
曜次の奔放さが羨ましい、悟の迷いのなさが羨ましい、灰原の明るさが羨ましい、七海のあきらめが羨ましい。時分は呪術師になってなにをしたいのだろう、傑の思考はまたそこで渦巻いて足を止めていた。
傑を踊り場に残して廊下を走る
曜次はここのところずっと傑の調子が悪いことが気になっていた。昔なら他人の様子など気にもかけなかったというのに、呪術高専で傑や悟、硝子と触れ合ううちに、
曜次にも人の心を慮るという気持ちが芽生えたのだ。そのほとんどは毎日のように丁寧に接してくれた傑のおかげといっても過言ではない。だからなおさら
曜次は傑のことが心配だった。一年と半年ほど前の星漿体の任務、
曜次が同行できなかった任務で何があったのか、いまだに傑は語ろうとしない。そして普段は饒舌な悟も星漿体の任務に関することはいつもだんまりになってしまい、あの時一体何があったのか、
曜次は知らずじまいだった。
高専の入り口にはすでに補助監督が車を回している。
曜次は全力で校庭を駆け抜けると、補助監督が開けてくれた扉の中に飛び込んで荷物を後部座席にどさっと置いた。ここしばらくしょっちゅう任務に駆り出されたおかげで、荷物を部屋でひも解く暇もなかった。なので
曜次が抱えている荷物はこの間高知へ行った時と全く同じだ。
「
天野一級術師ですね? 補助監督の有田と申します。本日の資料をどうぞ」
「はーい」
曜次は分厚い資料を受け取って、ぱらぱらとめくる。
「そうえいえばさ、こういうへき地での呪霊の発生って誰が調べてんの? 有名な場所ならともかくも、こんなへき地じゃ呪術師が定期的に巡回しているわけじゃないでしょ?」
「補助監督には一般に術師が任地へ赴く補助や仕事の内容の補助をするタイプの他に「山狩り」と呼ばれるタイプがあるんですよ。山狩りの仕事は日本の各地を歩き回って、呪霊の痕跡がないか調べることです」
「修験者的な?」
「そうですね、その表現が正しいかもしれません。彼らも高専の重要な補助監督として名前を連ねてます」
「ふぅん……」
曜次は資料を見ながら話を聞き流す。資料には一般的なことしか書かれておらず、呪霊を目視した報告はないようだった。ただ濃厚な残穢が幾か所にも残されており、それが村人の失踪と関係があることは確かなようだ。
有田は
曜次に書類を渡すと運転席に乗り込んでハンドルを握った。高専の車はどれもそうだが、非常に乗り心地がいい。発信するときも多少のでこぼこ道もほとんど振動を感じることなく快適に過ごすことができる。基本的に危険な場所へ行く術師へのせめてものねぎらいということなのだろうか、真実のほどはわからないが、寝るにはちょうど良かった。この前の高知の時の任務のように飛行機に乗る必要はないが、それなりに遠方の任務だ。
曜次は車の中でうとうととし始めた。
任地の近くにたどり着いたのは、夕方だった。夏なのでまだ明るいが、日差しは山の向こうに隠れてしまい、全体的に陰気な雰囲気が漂っている。
曜次は荷物の中から懐中電灯を取り出して、電源を入れる。だが点かない。仕方ないのでニ三度縦に強く振るとようやっと点いた。
「車ではここまでです。この道に沿って行くと十分ほどで村に到着することができます」
「はいはい」
刀を確認して、
曜次は荷物を背負いなおすと歩き始める。
それが補助監督が
曜次を見た最後の姿だった。
朝から教員が騒がしく駆け回っているのが、自室にいてもわかるほどだった。傑は何事だろうとドアを開けて外を確認すると、ちょうど悟が帰ってきたところで、ばちっと目が合う。
「お帰り悟、今回の任務はどうだった」
「もう最悪、意味わかんない」
疲れた~と語尾を伸ばす悟にお疲れ様と声をかける。
「そういえば今日はずいぶんと騒がしいみたいだけど何かあったか知ってるかい」
「いや? ああそういえば夜蛾先生が忙しそうだったけど」
「そう、まぁ何かあれば連絡があるだろうし、と言ってるそばからかな」
ぶー、ぶー、と傑の自室の机の上で携帯が震えている。傑は部屋に戻って携帯を手に取るとスライドさせて電源を入れた。術師は校内にいるといっても、圧倒的に広い敷地内のどこにいるのかわからないため、何かあるときは常に携帯に連絡が入るようになっている。
「悟」
「何?」
「緊急集合だ、いつもの教室」
悟は頭をがりがりとかいて「くそっ寝ようと思ったのに」とぼやいた。
悟が荷物を置いてくるのを待ちながら、傑は携帯のメールを開く。
曜次からのメールはない。普段なら任務が終わるとうるさいぐらいメールをよこしてくるのだが、今回に限ってそれがないこと、そして夜蛾からの緊急の呼び出しというのが重なって鼓動が早鐘のように打っている。まさか、いや
曜次に限ってそんなことはないと傑は言い聞かせながら、悟を待つ。
「待った?」
「いや、大したことはないよ」
いつも通り平常を装って言葉を返すことができただろうか? 傑は携帯をポケットにしまいながら歩きだした。悟もそれに続く。欠伸をしているところを見ると連日連夜の任務であったことが簡単に想像された。
「緊急連絡ってなんだろ」
「さぁ、私にも見当がつかないよ」
曜次のことじゃなければいい。
曜次が任務に赴いてもう一週間になるが、例えば、山奥で足をくじいたかなんかして治るまで宿に逗留しているとか、その時に携帯を落としてしまったのだとか、傑は頭の中で都合のいい言い訳を考えながら真顔で集合場所の教室に向かったのだった。そしてそこで聞かされた事実は、傑の想像をやすやすと破り去って、最悪の出来事として現実を傑と悟に突き付けたのだった。
教室はしんと静まり返っている。硝子も任務でいないので、今は傑と悟だけだ。入学したばかりのことを思い出すな、と思うのは、考えたくない事実から思考を逸らそうとしているからだ。長時間座っているとお尻が痛くなってくる硬い椅子に腰かけて、待つこと数分、髪が乱れたままの夜蛾が教室に飛び込んでくる。
「緊急の連絡だ、心して聞いて欲しい。
天野曜次が行方不明になった。補助監督と山狩りの捜査の結果、
天野曜次は任務先で村人を切り殺し逃げ出したという。現在
天野曜次には捕縛命令が出ている。生死問わず、だ」
「おい、待てよ!」
大声を上げたのは悟だった。今まで眠そうだった彼は六眼を見開いてサングラスを外すと机に乗り出して怒鳴った。
「
曜次がそんなことするわけねぇだろ!? 逃げ出したという!? そんな曖昧な捜査で捕縛命令、しかも生死問わずなんて認められるかよ!」
今にも立ち上がりそうになった悟を傑が抑える。だが傑と手言ってやりたいことは山のようにあった。
「……私も異議を唱えます。捜査結果があまりにも曖昧だというのに捕縛命令はおかしい。しかも生死問わずとはめちゃくちゃな話だ」
「わかっている」
「わかってねぇよ」
「わかっているんだ、すまない。上からの命令なんだ、今はこれ以上言えない」
夜蛾は悟と傑のそれ以上の話を聞くことなく教室から出て行った。ほかにも報告に行かなければいけないところが山のようにあるだろう。悟は半ば腰を浮かせたまま、言葉の投げ所を失ってくそっ、と叫びながら教室の机を蹴った。傑は沈黙したままだ。
「傑はなんか言うことねぇの。
曜次と一番仲良くしてたのがオマエじゃん」
「あるよ、言いたいことなんて山ほどね。でも上は基本的に
天野家を嫌っているんだ。私は今回の
曜次の任務の結果をうまく利用して上が
天野家に介入する適当な事実をつくりあげているんじゃないかと思っている。悟、頼みがある」
「……何」
「
曜次から何かしら連絡があったら夜蛾先生ではなくまず私に連絡してほしい」
「……いいけど別に」
「ありがとう、私たちは私たちにできることをしよう。私は
曜次が向かった任務について調べることにする。悟は少し寝た方がいいよ、しばらく寝てないんだろう」
「……」
傑に指摘されて図星だったのか、悟は少し居心地悪げに頬をかいた。
「君の力が必要になったら必ず呼ぶから、今は休んでおいた方がいい。私は、元気だから」
「……そうかな」
「ん? 何か言ったかい?」
悟の最後の言葉は傑には届かなかったようだ。悟は「あーもう」と頭を大きく振って、それから「寝る」とだけ言って教室を出て行った。傑はそんな悟を見ながら、今回の任務について調べるため、夜蛾の下へ足を進めるのだった。
20201004