時間は15分ほどさかのぼる。
東京校のメンバーと早々に別れた傑はフィールドの西にある建物に向かってまっすぐ走った。東京校の出発地点が西よりであったこともあり、特に障害もなく古びた校舎のような建物にたどり着いた傑は入口を捜さずに割れた窓から建物の中に入る。まだ残っている窓ガラスの破片で手を切らないように注意しながら、建物の中に入ると、木造の建物は傑の体重にミシミシとうめき声をあげた。
ガラス窓はほとんど割れてしまい雨風に吹きさらされた建物の中は荒れ果てていた。教室とおぼしき部屋の片隅では積もり積もった土から植物が芽を出しており、人が手を加えないと人工物などあっという間に自然に飲み込まれるということがよくわかる。
傑は割れた窓ガラスをじゃり、と踏みしめてどこか適当に座れるところを探した。
椅子のほとんどは水が染み込んでぐずぐずになっている。こうなってしまっては地面に座ったとしても大差ないか、と傑は思いながら教壇の少し高くなっている場所に腰掛けた。尻の下でグズグズと腐った木が軋んだ気がしたが傑は気にしなかった。
傑があえて屋根のある建物の中に身を潜めたのは、こういった建物が呪霊のたまり場になりやすいことを知っているから、ではない。傑の仕事は数の多い呪霊でフィールドを覆いつくし、一気に呪霊を祓うことだ。そのためには七百近くの手持ちの呪霊に ①人は襲わないこと ➁夏油傑の影から現れた以外の呪霊を殺すこと ➂フィールドから出ないこと ④敵性呪霊が人の形をしている場合は本物の人と見分けること をはじめとした細かな縛りを設けなければならない。そうでなくては、優に百を超える呪霊の相手を、
曜次や悟がしなければいけなくなってしまう。それは傑の本位ではなかったし、この日のために立てていた作戦とも違ってしまう。呪霊への縛りは慎重に定めなければならなかった。そのためには誰にも邪魔されない場所が必要だった。特に京都校側に風雷仙術、つまり風と雷を扱う術師がいることは、野外での活動に非常に危険が伴うことを意味している。京都校に邪魔されず、落ち着いて呪霊に縛りを与えることができる場所、そのために選んだ場所がこの古びた建物であった。
本来ならこういった建物には負の感情がたまり呪霊が生まれやすくなる。現に今も、呪霊の赤子と呼べばいいのか、小さな目玉の集合体のようなものが建物の隅で産声を上げている。だがそれは蠅頭よりもはかなく、傑がふぅ、と息を吹きかければ消えてしまうものであった。随分と長いこと放置されている建物なのだろう。昔はそれなりに負の感情を集める吹き溜まりとなっていたのだろうが、時間が負の感情と言うものを弱くはかないものに変えていた。
そんなものはどうでもいい、と傑は集中する。何せ東京校の作戦は傑の呪霊にかかっている。勿論傑以外のメンバーが仕事をしていないかと言われたらそんなことはない。彼らは彼らなりにやるべきことをやっている。だが京都校に対し圧倒的な勝利を収めるには、傑が要といって間違いではなかった。残り七分。傑は手元にいる七百の呪霊を縛り上げていく。
傑が今回出す呪霊はどれも四級から三級がほとんどで、二級以上の呪霊を出すことは叶わなかった。先の……といってももう三か月以上経つのだが、先の星漿体保護任務の際、伏黒甚爾に手持ちの主力級の呪霊をほとんど祓われてしまったのだ。もう少し時間があれば、また一級以上の呪霊を集めることもできたのだが、あいにくと任務と授業にきりもみされる毎日では、集中して呪霊集めをすることはできなかった。
数少ない一級の呪霊は個人戦のため温存しておきたい。となると必然二級以下の領域を展開できない呪霊が中心となるわけだが、等級が低いといっても呪霊は呪霊である。縛りがなければ自由に暴れだすことは想像に難くない。
全ての呪霊を縛るのにあと少し、となったところで、ぴくりと傑の耳が動いた。何かが聞こえたわけではない。ただ、この建物の中に入るときにばらまいてきた呪霊の何体かが、祓われたのを傑自身が感知したのだ。
傑が呪霊操術で所持している呪霊は、視覚・聴覚共有こそできないものの、基本的にどこで何をしているかは直感的に傑にはわかるようになっている。勿論正確な場所や遠くから命令を下すようなことは不可能だ。だが祓われた、ぐらいのことであればすぐに傑に直感として伝わってくるのである。
傑は立ち上がった。元は教室であったのだろう部屋の床がみしみしと音を立てる。傑がたてる音とは別に、誰かの話声、歩く音、消える呪霊の最後の叫びが建物に響いていた。
「はぁ、なんかヘンゼルとグレーテルにでもなった気分」
「ぽつぽつと続く呪霊の道を辿って行ったらそこには?」
「残念だったね、あれは今回の交流会用に用意された呪霊ではないよ」
「はー本当に残念」
傑が腰を落ち着けていた教室に入ってきたのは二名の男女であった。女の方は一昔前のポラロイドカメラのようなものを首からぶら下げている。男の方は右目を髪の毛で隠しており、その髪の毛を赤く染めていた。二人とも黒い制服に身を包み、京都校の生徒であることは確かだった。
「ということはあなたが呪霊操術の術師?」
女、京都校二年の日置香代は日常会話の延長戦のように気軽に傑に尋ねてくる。それを否定する意味を持たなかった傑は「そうだよ」と隠すことなく答える。
「今、君たちが祓ってきたのはすべて私の呪霊だ」
傑はじり、と左足を下げる。それと同時に手を宙に構えた。
日置香代も、男、稲葉豪の術式もわからない。だが日置香代に限って言えば、その媒体がカメラであることからなんとなく想像することはできた。
香代がカメラを構える。
傑は手のひらから自分の体を覆うほどの呪霊を引っ張り出した。香代の指がボタンにかかるのとほぼ同時だった。
カシャ、とシャッターを切る音と同時に、傑の体を覆い隠した呪霊が音を立てて消えていく。三級の呪霊で、大きさがあるため使いやすかったのだが今は背に腹は代えられない。傑は呪霊が掻き消えるとほぼ同時に教室の入り口に向かって走る。カメラの術式は十中八九、対象を明瞭に捉えなければ発動しないだろうというのが傑の予測だった。
その予測はあたりのようで、香代は「もうっ!」と怒りながらカメラを傑の動きに合わせて動かす。だが傑の方が一歩速い。
「勘のいい人! 私の術式バレたかな?」
「さぁ、でも発動条件はカメラを見りゃ一目瞭然だろ。日置は俺のサポート、作戦通りいくぞ」
「はーい」
傑に続いて香代と豪も教室から出る。
一瞬の間のはずだった。だがその間に傑は大量の呪霊を引き出して廊下に適当に投げ込んだらしい。廊下は呪霊がそこかしこに散らばって獲物を探していた。呪霊の目玉が香代と豪をじろりと睨んでくる。
「あの人が多分夏油傑だよね。ああっもうこれだけ数がいるとカメラに収めきれないよ、豪くん」
「はいはい」
豪と呼ばれた少年は、右目を覆い隠していた髪を片手で持ち上げる。右目があるはずのところにあったのは、薄暗い闇だった。その闇の中で何かが渦巻いている。それは入り口ができたことを歓喜するように豪の右目からあふれ出した。
「締盟蠱術! 呪霊操術とどっちが強いかな!」
「そりゃ、豪君じゃない? だって呪霊操術の方は操る呪霊がいないとだめなんでしょ。豪君は確実に一匹飼ってるし、その一匹が最強なんだから」
香代は唇を尖らせて言う。
「食え」
豪の右目から出てきた呪霊は蛇に似ていた。だが羽根があり、手足が無数に生えている。鱗のある体から人間の手足が生え、口は四つに割れて舌をちろちろと覗かせているのだ。それは名前のない呪霊だった。稲葉豪の締盟蠱術は右目の中に取り込んだ呪霊を体内で殺し合わせ、一匹の最強の呪霊を作る術式である。締盟蠱術の術式を持った術師には生まれつき右目が存在しない。生まれたときから、その器(肉体)を蠱毒のために捧げているのだった。
豪の命令に従って、さまざまな呪霊が混在したような蛇はあっという間に廊下に散らされた呪霊を食い尽くした。大したことのない呪霊の集まりであったため、ほんの数秒で呪霊は掻き消え、しんと静まり返った廊下が闇をはらんでいる。
「夏油傑は?」
「多分、上だろ」
よく耳を澄ますとなるほど二階からかすかに足音がする。香代と豪にとって傑の目的が分からないながらも、呪霊操術は京都校にとって厄介な術式であることは確かだった。ここで見つけた以上、できれば仕留めておきたいというのが二人の心情だろう。
そのように、傑は読んでいた。二段飛ばしで駆け上がった階段も腐りきっており、一度足で踏み抜いてしまったが、勢いに任せて二階に飛び上がった。その間も呪霊を少しずつ撒くことは忘れない。二階の教室に飛び込んで、まだ残っていた教卓の内側に身を隠す。今は少しでも時間が欲しかった。あと少し、あと少しで呪霊への縛りが終わるのだ。そうすれば東京校の勝ちは間違いない。
ミシミシミシと軋む階段を二人が登ってくる。傑は体内に呪具を格納できる呪霊を引き出し体に巻き付けた。これは伏黒甚爾から引きはがされたものを取り込んだのだ。等級は低いが体内になんでも入れてくれるので物入れに重宝していた。
それは傑の直感であった。傑は物を格納できる呪霊から呪具を引っ張り出す。そしてそっと構えた。
次の瞬間、目の前にいたのは豪が呼び出した呪霊であった。ぎょろりと目玉が傑を見て、その大きな口がぱかっと開かれる。口の中には逆さ棘がいくつも連なっており、一度噛み付かれたら、脱出することは難しいだろうことが簡単に予想できた。
「っ!」
口を開けたそれは教卓の内側に隠れた傑を容易に見つけ出し襲ってくる。傑は二級の呪具である刀を突きだし、右に振った。そのおかげで、呪霊が噛み付くことになったのは教卓の一部となったが、その噛む力の恐ろしさよ、一瞬にして教卓は形をなくし、傑は隠れる場所を逸して教室を転がった。この呪霊は取り込むことができない、なぜならすでに豪と主従契約を結んでいるからだ。取り込みたければまず豪を倒さなければならない、ということを以前の任務で学んでいた傑は、折れた刀を捨てて三節棍を取り出した。三節棍はまだ訓練中だ。とてもじゃないが手足のようには動かせないが、手持ちの呪霊と合わせてなら、なんとかあの不気味な蛇とも戦えるだろうと傑は目算する。
出し惜しみはなしだ、とばかりに傑は一級呪霊を引っ張り出した。本当は個人戦に備えてとっておくつもりだったが、今この状況では生き残る方が先決だった。呪霊の相手は呪霊に任せて、傑はぱっと教室の入り口の方に向き直って、再び大きな呪霊を引っ張り出すとその陰に姿を隠した。それと同時にシャッターを切る音がする。
カシャ ジーー
「もうっ本当に勘のいい人!」
カメラを構えた香代が頬を膨らませた。傑が盾に使った呪霊は形を崩しぐずぐずと消えていく。傑は次の呪霊を出す準備をしながら、じりじりと、教室の中を移動する。
教室の前半分では豪の蠱毒によって強化された呪霊と傑の出した一級呪霊が互いに巻き付きあって死闘を繰り広げていた。それに巻き込まれないように、そして香代のカメラに納められないように互いににらみ合ったまま状況の打開点を探していた。
ピピピピピと電子音が鳴ったのはちょうどその時だ。
「!?」
香代と豪はそれがどこから響くものなのか、呪術に関係があるものなのかわからず一瞬気を逸らす。その隙に傑は手のひらから生み出しか影の中から無数の呪霊を吐き出した。それと同時に窓に向かって全力で走る。
「あっ! ちょっと」
香代は慌ててシャッターを切るが、対象がぶれてしまっては香代の呪術は成立しない。香代が媒体に使うポラロイドカメラはシャッターの速度があまり早くないのが問題だった。本当なら一眼を使いたいのよ! と怒りながら、撮影されたフィルムを見るがそこに映っているはずの夏油傑はぶれぶれで、とてもじゃないが話にならなかった。
傑は二階の窓から飛びだす。幸いにして窓ガラスはほとんど割れていたので割る必要はなかった。傑の影より現れた山のような呪霊は一斉に建物から飛び出すと、波のようになって、フィールドを覆いつくす。
先ほどの電子音はちょうど十五分の合図だ。
傑があえて豪と香代に対し戦いを挑まなかったのは逃げ回っている間にも呪霊に縛りをかけていたからである。移動しながら縛りを練るのは少々コツがいったが、いい経験になったと傑は着地しながら思う。二階からとはいえそれなりの高さがあるところからの着地は足がしびれたが、傑がやるべきことはやった。あとは、と思っているうちにフィールドのあちらこちらに建てつけられたスピーカーから団体戦終了の合図が鳴った。
学生は戦闘行為をやめて東京校・京都校それぞれに割り当てられた作戦室に戻るように放送が流れる。
悟はふぅとため息を吐いて無量空処を解いた。それと同時にばたりと京子が倒れ込み荒い息をつく。それなりの時間、不完全とはいえ悟の領域の中にいたのだ、ダメージは少し、では済まないだろう。巻き込まれる形で領域に取り込まれた三浦純也は完全に意識を失っているらしく、悟はさて、どうしたものかと首をかしげた。
烏がカァカァと鳴いている。十中八九あれは冥冥の操る烏だ。視覚共有もしているだろう。それならこの二人はほっといても京都校側の誰かが回収するだろうと見当をつけた悟は大きく伸びをして二人に背を向けて歩き出した。領域展開の形はできた。あとは持続時間が問題だな、と思いながら、悟はのんびりと木々をかき分けて作戦室に帰還するのだった。
フィールドの外縁部で戦いに興じていた吉里吉里風理と縣啓介は多量の呪霊に飲み込まれて何がなにやら、といったところだが、団体戦終了の放送にがくりと肩を落とす。京都校は風理と啓介の術式を元に作戦を練っていたのだ。それを邪魔されたのは致命的だった。
「せめて俺が
天野を止められていたらなぁすみません先輩」
「仕方ない仕方ない。個人戦に切り替えようぜ」
「はい」
風理は大きくため息を吐く。
呪霊と共に姿を消した
天野曜次と家入硝子は、木々の合間に隠れて終了の放送を聞くといえーいと言いながらハイタッチした。京都校の作戦を妨害できたことは大きい。同時に傑が上手くやったのだ、ということを把握しての勝利のハイタッチだ。
「ま、俺と硝子は本当は作戦に組み込まれてなかったわけだけど、それでもうまくやった方なんじゃない?」
「外縁部で積み石を見つけられたのは大きかったよね。あれ壊せてなかったら五分五分だったんじゃない」
「そっかぁ、じゃあ運がよかったんだな」
「ま、時の運も実力のうちかもね」
硝子はタバコ吸いたいな、などと未成年にあるまじき発言をしながら、団体戦のフィールドから出る。団体戦のフィールドをほぼ半周した
曜次と硝子はほとんど森の中を通ることなく作戦室にたどり着いた。先に戻っていた灰原、七海そして楢原とハイタッチする
曜次は次に始まる個人戦に緊張の欠片も見受けられない。楢原はそれが心配であるような、同時に
天野曜次なら問題ないような複雑な気持ちで、戻ってくる残りのメンバーを待っていたのだった。
傑は放送を聞きながら、一級呪霊を改修しながらぼんやりと空を見ていた。自分はあの時より強くなったのだろうか。星漿体天内理子を殺されたときから、少しでも強くなれたのだろうかと自問する。交流会は自分の実力のほどを計るにはちょうどよい場だった。だがそれでも不安が残る。あの時、天内理子を助けられなかった自分が一体これから何を成せるのか、術師とは本当に非術師のために存在するのか。疑問は渦を巻き傑を苦しめていた。天内理子が死んだときからずっと心の中にあるわだかまりが消えないのだ。
そっと視線を落としながら、傑は作戦室に向かって歩く。まだこれは答えの出ない問題なのだ、と心に言い聞かせて、今は団体戦の勝利を祝おうと心に決めて、傑は作戦室の門をくぐった。
「傑いえーい」
「はいはい、
曜次はほとんど仕事をしてないだろう?」
「そう見えるだろ? 実は俺たち結構重要な役割を担ってたんだぜ?」
「その話は後で聞くよ、とにかくお疲れ様」
「うん、お疲れ様」
曜次は笑って言った。
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