「来た」
曜次はゆっくりと刀を抜く。
刀は濃い黒の模様が浮かび出ている。乱れ刃だ。刀身がトンネルを照らしあげる蛍光灯に煌めき、独特の反射光がトンネルの壁に映し出される。
天井にできたヒビはある程度の大きさになるとそこでぴたりと止まった。ぱらぱらと破片が落ちてくるが、じっと見ているとその隙間から肉の塊のようなものがずるりと姿を現す。
不定形のそれは表面に網の目のように血管を張り巡らし、少しこすれるだけでぷつりと血管が切れて血と膿が混じった液体をぼたぼたとこぼした。
ゲッゲッゲッ、と気味の悪い音がトンネルの中に木霊する。
悟も傑も反響する声に注意しながら、いつの間にかトンネルの天井がヒビ割れだらけに、そして蛍光灯が急速に劣化していることに気づく。まるで早送りでも見ているかのような気分だ。ぱちぱちと消えては点いてを繰り返す蛍光灯は妙に気味が悪い。
隙間からぼたりと大きな、ワゴン車ほどもある大きな肉の塊が完全に姿を現すと、それは捩れて二つの関節を作り、胸部より人間の手足がずるりと姿を現して肉塊の体を支える。まるで蟻のようだと思う。頭部に突き出た八つの目玉からはどろどろと血のようなものが流れ出し、泣いているようにも見えた。もっとも大きな肉塊は腹部であり、完全に形を変えきると、その腹部には人間の顔のようなものが浮かんでは消え、浮かんでは消える。人間の顔は精々目鼻立ちが分かる程度だが、肉にうずもれたそれは口から血を吐き何か呟いているが声はあまりに小さすぎて、同時に大勢が話すものだから何を言っているのか分からない。ただ、いくつも現れては消えるその顔の中に、木島から渡された資料の中にあった行方不明者の顔が一瞬見えて消えた。
「生存者なし、救助じゃなく退治に変更だな」
トンネルの中は今はひどい臭いが蔓延していた。血の錆びた臭いと、膿の腐った臭いだ。鼻をつまみたくなるほどの悪臭だが、そんなことに気を使っている場合ではない。
曜次は刀を中段に構えると、右足を一歩前に出し、ぐっと刀を握る手に力を入れる。それと同時に踏み出す。
一歩、二歩。わずか二歩で五メートルほどあった巨大な蟻に近づく。縮地だ。相手との間合いを詰める術。
曜次の場合、瞬きの間に十メートル程度の距離でも一瞬で詰めてしまうから、悟も傑も毎回
曜次の縮地には手を焼いている。今回も蟻が動くよりもはるかに早く
曜次が距離を詰め、わずか一瞬で全ての手足を切り落とす。噴出した血と膿を避けながら、さらに背後からもう一刀、腹部が真っ二つに割れてその瞬間蟻はトンネルに響き渡る悲鳴を上げた。
ぎぃぃいいいいあああああああああああ
頭ががんがんする。耳から入って脳みそを直接揺らすようなその声は、トンネルの中で反響して繰り返し三人の脳を揺さぶった。耳が痛みを訴えている。耳だけでない、全身が痛みを訴えている、そんな錯覚を覚えるようなひどい嗚咽と悲鳴だ。
蟻は悲鳴を上げながらも体を再生していく。後ろ半分を切り落とされた腹部はほとんど再生していないが、手足はいくらでも伸ばすことが出来るようだった。肉が盛り上がり、一瞬のうちに三つもの関節を持つ人の腕が生えてもう一度体を持ち上げる。地面には血と膿のどろどろとした液体の水溜りが広がっており、そこをずん、と手で踏みしめて、それからがさがさと虫のように悟の傑の方へ走り出した。蟻の背後にいる
曜次相手では勝てないと踏んだのか、そんな知性はなくただ真正面にいた二人を狙ったのかわからない。
「逃がすか!」
蟻は大きさの割りに動きが速い。生えた腕が非常に強靭で、大きな体をものともせずに持ち上げ、走り出す。
だがそれよりも
曜次の方がさらに速い。悟と傑が蟻と対峙すべく、構えた瞬間。
曜次は大きく跳躍し、トンネルの天井を蹴り飛ばすと、わずか一度の跳躍で蟻の真上に飛び込んだ。
悟と傑に蟻の手が触れるまであとわずか、
曜次の刀が、蟻の頭に突き刺さる。再び悲鳴が響き渡った。頭部から飛び出た目玉がぎょろぎょろと
曜次を見て、振り落とそうと大きく体をゆする。
「下がれ!」
曜次は蟻に振り落とされる前に、もう一度跳躍すると、蟻と二人の間に着地して今度は頭部を横に薙いだ。
呪霊を倒す時にどこを潰せば良い、という指南書は存在しない。ただし大抵の場合はどこかに呪霊そのものを動かす核があるので、それを見つけて切り落としてしまうなり潰してしまうなりすれば呪霊を祓うことが出来る。核になるのは、あくまで統計的な話になるが、頭部か胸部であることが多い。つまり脳と心臓ということだ。虫のような姿をしている場合は各関節ごとに核が存在したり、例外も多い。確実に倒すには細切れにするのがよい、がそれもそう簡単な話ではない。
曜次は今回は頭部を集中的に攻撃した上で、あとはもうめちゃくちゃに切り刻んだ。目玉を突き潰し、手足を再生するたびに切り落とし。腹部を細切れにして、そうしたあとようやっと動かなくなった蟻は血を撒き散らしながらどろどろと形を崩していく。
血と膿で汚れた制服を見て
曜次は「うえっ」と吐く様な動作をしてから二人に向き直る。地面に刺した刀を抜いて、軽く点検しながら、軽く刀を祓うと、刀に張り付いていた血がトンネルの地面と壁に飛び散った。
「あー臭い! 最悪!」
そういいながら
曜次は悟と傑の方を向く。
「とりあえずこれはこれで終わりって感じだな。生存者はゼロ、だろ」
曜次は手の中でくるりと刀を回して、血と膿を払うと鞘に収めることなく刀を持って悟と傑の方へ歩いていった。
「鞘、仕舞わないの」
「もう少し血を落とさないと錆ちゃう」
悟の言葉に
曜次は、心底嫌そうな顔をして自分の刀を見た。
払った、といってもそれは表面上のもので、こびりついた膿がぽたりぽたりと地面に雫を落としていく。これをどうにかしないと刀を鞘に収めるにも、あとあとの処理が大変になるだけだろう。
「はーあ、結局生存者はいなかったし、戦うにも場所は狭い相手はでかいやりにくい」
首を傾け
曜次がため息をついた。そしてため息をついたままの首の角度できょとんと目を丸くして、ぴょんぴょんとスキップでもするように悟に近づくと、ぱっと悟の頬を両手で捕まえる。
綺麗な石を川原で拾った子供のようにきらきらと目を輝かせて、悟の両目を見つめると、すぐに傑のほうに向き直って「これ!」と、やけに喜ばしそうな声を上げる。
「すげー! きれー! 傑見てみてこれ、ほら!」
曜次が言いたいのは悟の瞳のことらしい。普段からサングラスをかけているために傑も悟の瞳を見たことがなかった。
傑も悟に近づくと悟は嫌なような照れくさいようなそんななんともいえぬ表情で傑に救いを求めてくるが、興味本位で動く子供のような
曜次の行動を、制止できた試しはない。諦めろ、とばかりの視線を悟に向けながら、傑も悟の瞳を覗き込んだ。
ちらちらと光る蛍光灯の下、光の角度で色を変える美しいコバルトブルーの瞳。写真で見る美しい海のように、ゆらゆらと揺れる淡い青はなるほど、確かに美しいものであった。
曜次があまりにも嬉しそうに言うので、覗き込んだ傑も、なるほど確かに蛍光灯の下ではあるものの、綺麗な水色をしているなと思う。普段はサングラスをかけていることもあり、またそもそも他人の瞳などそんなにまじまじと覗きこまないこともあり、傑は今まで人の瞳が美しいと感じたことはあまりない。虹彩は蛍光灯がちらちらつくたびに違う青色を写してみせる。若干体が引き気味になっている悟もそんな風に言われるのは初めてだったのか、少し耳が赤くなっていた。
離せよ、と覚る強引に
曜次の手を引き剥がすと、ポケットに突っ込んでいたサングラスを取り出していつものように瞳を隠してしまった。彼の場合、色素が薄いので少しの明りでも眩しいのだ。
曜次は悟の目がいたく気に入ったのか、サングラスをかけた後も隙間から見ようと体を傾けて覗き込もうとする。悟はそれを避けるように体を捻って傑の後ろに隠れた。
「私を盾にするなよ」
「いいだろ別に」
「傑も綺麗な瞳してるよね、悟がアクアマリンなら傑は黒曜石」
へらっと
曜次は笑って言う。そういうことは女に言えばいいのに、と思わないでもなかったが、
曜次は素直に思っていることを言っているだけのようで、言うことにあまり頓着がない。
褒められて嫌なわけではないが、どうも気恥ずかしく傑はふいと横を向く。
その時ふと気づく。まだ、生得領域が消滅していない。
「まだ、生得領域が」
「やっぱりそうだよね? ね? 俺も倒して終わりかと思ったんだけど」
曜次がそう言ったときだった。三人の真上の天井にびしびしびしと大きなヒビが入り、まさに崩壊せんとばかりにコンクリートの破片がばらばらと落ちてきた。
「二人とも舌、噛むなよ」
曜次はそういうと同時に傑の手を片手で掴み、もう片手で刀を構え、そのまま縮地の動作に入った。傑の後ろについていた悟が傑の腕をぎゅっと握る感触がする。その瞬間、体は今まで経験したことがない速度で十メートルほど移動し、その速度に慣れていない傑と悟はそのまま地面に転がった。ソレと同時にぞわりと背筋に寒いものが走る。
先ほどの呪霊は二級かそれ以下だ。正直なところ
曜次一人で十分であったし、仮に
曜次がおらずとも悟と傑だけでも対処は十分に可能だった。だが今天井をぶち破り、さらに床をもぶち破って落ちていった呪霊は、先ほどの比ではない呪力を抱えていることがわかる。ぞわりと薄ら寒いものが背筋に走り、危険であると全身の細胞が騒いでいるようだった。
一瞬見えた姿は先ほどの蟻と同じ形だった。だが尻に当たる部分から、子供のように卵のように何かを生み出し続けていた。
「あれが本体! どう考えても一級だろ!」
曜次は穴に落ちるぎりぎりで着地し、落ちていった呪霊の姿を捉えようと穴の中を覗きこむ。
「
曜次! 下がれ!」
悟が叫ぶのとほぼ同時、
曜次の首を絞め殺さんとばかりに複数の触手が、穴から伸び上がる。即座に首を刀を持っていない片方の手で守り、刀でもって触手を払うが、足元にまきついた別の一本を切り落とすには間に合わなかった。
「わっ」
がくん、と
曜次の体が一瞬沈んで、その後穴の中に
曜次が引きずり込まれる。穴の縁に刀がぶつかって、きぃんと音を響かせ、跳ね上がると天井に突き刺さった。
曜次の体はそのまま穴の暗がりに吸い込まれてしまう。
「
曜次!」
慌てて二人が穴の縁から覗き込むが、トンネルの天井についた蛍光灯の光は、地面に空いた大穴の底を照らすにはあまりのも不十分だった。暗闇が雪のように降り積もっている。傑には真っ暗すぎて何も見えない。
「いた、そんなに深くない! 鞘で戦っている」
だが色素の薄い悟にはこれだけ暗くてもそれなりに見ることが出来るようだった。闇が穴の縁から迫ってくる、そんな恐怖に自然二人の身が震えるが、そんな危険な中で、一人戦う
曜次を見捨てることもできなかった。
傑はぐっと手のひらを強く強く握り締める。
悟は一つ息を吸うと、天井に突き刺さった刀に手を伸ばし、一度跳躍してずぼっと刀を抜いた。コンクリートをも貫通する刀の切れ味は恐ろしいほどだ。だが呪具であるなら、それだけの切れ味があってもそうおかしいことではなかった。蛍光灯の光を浴びて独特な反射光を放つ刀を持つと、ぞわりと背筋が寒くなる。手放したい、だがこれを
曜次に届けなければいけない。
「行くぞ」
悟はサングラスを捨てて穴の中に足を踏み込んだ。
「悟!」
すでに悟は崩壊した壁面のでっぱりに足や手を引っ掛けながらどんどん下に下りていく。傑にはほとんど真っ暗で中が見えないのに、悟には見えているのだ。全く嫌になると傑は思いながら、二人をこのまま下ろしておくわけにも行かず、二人の後を追った。
* * *
カン、カキン、カン、カンカンカン
曜次の鞘と蟻の爪が幾度も交差してその度に虚ろな空洞の中に音が響く。徐々に速度を上げて、まるで型の稽古のように定められた太刀筋で、繰り返される攻撃を
曜次は受けて返して、また受ける。
穴の中に「いる」とわかっていたのに無防備に覗き込んだのは、
曜次の失策だった。引きずり込まれる勢いに負けて、刀が弾かれ穴の外に残してきてしまっては刀鍛冶なぞ名乗ることもできない。今の
曜次の位置から、上に残した刀を取る術がないわけではないが、その余裕を与えてくれるほど、目の前の呪霊は優しくはなかった。
曜次の持つ刀が特別ならば、鞘もまた特別だ。呪霊の攻撃を何十合と受けても今だ鞘に傷一つつかず。おそらく、このまま耐え切れば倒すこともできるかもしれない、だがそれは
曜次の残りの体力と相手の呪力とのチキンレースだ。どちらが先に死ぬか、そんなレースを長々と続ける気はなかった。
先ほどの蟻を巨大化させた形状、腹部がさらに大きく膨らんでいるそれは、口から吐き出した触手で
曜次を食わんとばかりに巻きつくが、それを
曜次は鞘で切り落としていく。刀でなくてもそれなりに斬る、ことはできる。だが刀ほどの精度はない。
明らかにこの呪霊が親、であった。先ほどトンネル内で戦ったのはこれが生み出したのだ。先ほどの蟻が傭兵とするならば、こちらは女王蟻といったところだろう。
曜次は額に汗がにじむのも構わず、ほとんど何も見えない暗がりの中で、近づいてくる触手を払い落とし切り落としながらなんとか切り伏せるチャンスを狙う。天井の穴から届く明りは少なく、
曜次は自身に触れる直前に反射で爪も触手も払い落としていた。
明りが、足りない。
「
曜次、刀!」
上から声が降ってきたのはそのときだ。
曜次は汚水の臭いのする地面を蹴る。水がはねる。触手が伸びる。足元にたまっているのは汚水なのかはたまたただ水が腐っただけなのか、普段なら踏み込むのもごめんだが、今はそんな贅沢なことを言っていられない。すんでのところで長い触手を回避した
曜次は、そのままごろごろと転がって、体のバネで立ち上がると、まさにその目の前に悟が真上から落ちてきた。
悟が刀の鞘を
曜次に向けて投げるように、ぱっと手を離す。
曜次はわずかに悟の手から離れた刀をぱっと掴む。刀を手にした
曜次は「跳べ!」と悟に叫ぶと、自分自身もまた大きく跳躍した。女王蟻の爪が
曜次のズボンを引っ掛けたが、あまりにも鋭い爪はそのまま
曜次のズボンを破き、
曜次は跳んだ勢いのまま、壁を蹴り、女王蟻に真っ向から向き合った。女王蟻が触手を伸ばすよりも、爪を振るうよりも刀を持った
曜次の方が速い。触手と爪の生えた腕を全て切り落として、
曜次は女王蟻の頭に着地した。血が噴出して、
曜次と悟の制服を汚したが、今はそんなものに構っている暇はない。
しかしどうしても暗すぎた。
曜次が女王蟻の頭に着地すると同時に、女王蟻が何かするために動くのはわかったが、
曜次にはそれが見えない。
曜次の真下からしゅっと音がして、
曜次はその音だけを頼りに刀を横に薙いだ。カンッと何か硬いものがコンクリートの壁にぶつかる音がする。
「悟、
曜次! 明りをつけるぞ!」
傑の声がする。その言葉に返事をする余裕もなく
曜次はまた跳躍して、女王蟻から離れると、一瞬足元がぐらついた。なんだ、と思う間もなく、悟がダン、と音を響かせてそれを潰す。どうやら女王蟻が生み出した子供だったようだ。
傑が息を吐いて、吸った。傑の手のひらから、狐火のようなものがいくつも重なって現れる。ふらふらと浮かぶ明りはさながら魂のように、不安定に跳びながら今
曜次たちがいる空間を煌々と照らし出した。
そこは巨大な下水管のようなものの中であった。
曜次の正面には、糸と人間の体で作られた巣と思しき何か、がある。その前に立ちふさがり、円形の口に重なった歯がカチカチと左右に揺れて音を建てている。女王蟻は
曜次や悟が思っていたよりもはるかに大きい。トラックほどの図体から、次から次へと子供を生み出していた。
一級呪霊に相当するだろう女王蟻、それは
曜次と戦いながらも次から次へと低級の呪霊を生み出し続けている。壁一面に頭部から手足が生えたばかりの気味の悪い形をしたものが動き回っている。その様子は巣を守る虫の群れのようでもあり、餌に群がる蟻のようでもあった。天井、床、壁問わず、蟻がびっしりと張り付いており、それが低く高く唸り声を上げながら全ての目が三人を見ていた。
「うわっ気持ち悪」
悟が眉を顰める。
「
曜次! それ、一人で片付けられるか!?」
「多分大丈夫、それより周りの奴何とかして!」
曜次も余裕がない。そう叫んだ後は、剣戟が聞こえるばかりだ。
悟と傑も背中合わせになり狐火に照らし出された壁中を眺めて眉を顰めた。
「僕細かい調整まだ出来ないんだけど」
「いい、ここは私がやる。そもそもこういう数が多いのは私のほうが得意だ」
「へぇ」
悟は驚いたような顔をした。
傑が手をかざす。傑が行ったのはただそれだけだ。だがその行動に意味があるのか、突如場所を問わずに張り付いていた低級の呪霊たちは体が崩壊し、その体は傑の手のひらに集まっていく。
「うわっなにそれ」
「呪霊操術、取り込むんだ、呪霊を」
数百はいただろう低級呪霊は気づけばそのほとんどが傑のかざした手のひらに集まっていく。そしてそれは光をも吸い込んでしまいそうな真っ黒な球体に姿を変えてしまった。傑はまるで野球の球か何かのように掴むとそれを口を開いて飲み込んだ。
「取り込むってそういう!?」
「そうさ、気持ち悪いだろ」
その時の傑はひどく嫌な自虐的な笑みを浮かべていた。今まで悟も
曜次も見たことがない、気味が悪い、といわれるのに慣れている、そんな笑みだった。
悟はそんな傑の言い方に眉を顰める。そんなつもりで言ったわけじゃない。この狐火だって傑が前に取り込んだのを操ってるんだろう、と伝えようと思っても、今まで人と話すことを避けていた悟には今ここでなんと言えばいいのかわからなかった。
曜次なら何と返すだろう。「うわっ! なにそれ傑! すげぇいいな! 俺もやる!」そう、そんな風に、言うだろう? 頭の中に聞こえたその声に悟は思わず振り返って
曜次の方を見た。幻聴ではない、
曜次は傑の術を見て何かに気づいたようにぱっと顔を輝かせていた。傑はそんな
曜次の言葉に少しだけ目を見開いて、それからかすかに笑った。
天野曜次はそういう男だ。善も悪も、中庸に取り込んでいく。
曜次が刀に手をかざす。最初は何が起こっているのかわからなかったが、よくよく見ると呪霊は自身の体を構築する呪力を吸い取られているように、ミイラのようにからからになってぼろぼろと形を崩し始めたのだ。目に見えるほどに呪力が塊となってそしてそれら全てが
曜次の刀に集まっていく。
曜次の刀がまとう呪力が、一段階上がった。
「
曜次! それは私が取り込むやつだぞ!」
「早い者勝ちー!」
曜次はけらけら笑いながら刀を握りなおした。
「俺さぁ! 自分で呪具に呪力はこめらんないんだよね! でも降霊術使うって言ったろ、つまり、そういうこと」
刀に呪霊を降ろせば降ろすほど強くなる、降霊術とはつまり他者の、この場合では呪霊を刀に降霊するという手段でもって、呪霊の呪力を刀に取り込ませているのである。相手の呪力を奪い己の呪力に変換して戦う。それが
曜次の降霊呪術である。
一方傑の呪霊操術は自らの体に完全に呪霊を取り込んで、そして必要にあわせて顕現させ自在に操る。
曜次の場合と違って傑は充電器のようなものだ。呪霊を溜め込めるだけ溜め込み必要に応じて使役する、
曜次は呪霊を降ろせるだけ降ろしてその場で呪力に変換し斬る。似ているようだが用途も方法も違う呪術である。だが
曜次と傑の呪術は似ている故にどうしても対立してしまいがちだ。
傑が呪霊を溜め込むことが出来る充電池のような役割と果たすのならば、
曜次は呪霊をその場で使い切る。傑と
曜次の呪術はある意味非常に相性が良く、非常に相性が悪いとも言えるだろう。傑が今まで捉えた呪霊を
曜次の刀に降ろせば、それだけ
曜次の刀は美しく洗練されていく。だがその一方で傑は自ら戦う手段の一つを失うのだ。
「傑勝負しようぜ! 呪霊を多く取り込んだほうが勝ちな!」
「馬鹿か君は!?」
「馬鹿じゃないよーだ、あ、馬鹿かな?」
曜次はひょいと跳躍して触手を避けながら、さらに刀の彩度を増して切りかかる。呪力を得れば得るほど刀は切れ味を上げていく。元々良い刀ではあったが、今の切れ味は先ほど二級の呪霊を祓ったときとは比べ物にならない。低級とはいえ多くの呪霊を取り込んだことで刀が纏う呪力が跳ね上がったのだ。
傑は低級の呪霊であれば、わざわざ呪霊を取り出すまでもない、とばかりに全て取り込んでしまう。低級の呪霊は操るにしてもあまり役には立たないが、ひとつひとつは小さくともまとめて山にすればそれなりの呪力の塊となるのだ。取り込めるものは取り込んでおいたほうがいい。
悟の呪術はまだ業が大味すぎた。でかい的を叩くのには向いているが、こういう細かいのを倒すにはまだ精度が甘すぎる。落ちてくる呪霊を手で払いながら、今は二人の手助けをするので精一杯だ。落ちていた鉄筋を拾い上げるとそこに呪力を流す。鉄筋は元々呪具ではないから、ゆっくりと無理はせずに。そしてそれを刀のように使えば低級の呪霊であれば十分に祓うことができるだろう。落ちてきた呪霊の真下に鉄筋をかざすと、じゅっという音と共に呪霊は消え去った。
そうして十分あまり経った頃だろうか、女王蟻の生み出した低級呪霊はほとんど姿を消し、残るは女王一体、それも
曜次が切り伏せるまでそう長い時間はかからないだろう。
何度も触手と腕の再生を繰り返した女王蟻は、繰り返される再生にさすがに限界が見えはじめた。それを見逃す
曜次ではない。ばしゃっと汚水がにじむ床を蹴ると空中で一回転しながら触手を切り伏せ、そしてその頭部についに
曜次の刀が届いた。頭部を真っ二つに切ると、山を揺るがすような巨大な悲鳴と共に呪霊はぼろぼろと形を崩していく。
「よし、終わり」
それ以上襲ってくるものがいないのを確認して
曜次は地面に刀を刺すと、汚水がたまっているのにも関わらずその場に座り込んだ。
腐臭はますますひどくなり、普段ならば鼻をつまむところだが、すっかり麻痺してしまった感覚では、汚水の臭いもほとんど気にならなかった。もはやズボンもシャツも靴も汚れていない方が不自然なほどにどろどろで、
曜次はまるで肥溜めに飛び込んだような有様だった。
ハーフアップにしていた髪留めは、戦闘の最中に割れてしまったらしく、
曜次の長い髪がさらりと肩にかかっている。汚れてなお柔らかな髪はまるで柳のように美しい流れで
曜次の体を覆っていた。傑は首を傾げながら、首から上だけを見ると本当に女のようだと思う。だが次の瞬間、
曜次は大きく伸びをしながらそのまま汚水の中に倒れこもうとしたので慌てて駆け寄った。
「あー! さすがにもう足が立たない!」
刀の鞘に手をかけたまま、真上を向いてそう叫んだ
曜次は最早恐いものなどないとばかりに、後ろにばたん、と倒れこむ、ハズだったが
曜次の側に駆け寄った傑が膝で背中を支えるとそのままぐでんと
曜次は力を抜いた。
「さすがに終わっただろ」
「まぁね、それで君は一体いくつ取り込んだ?」
「ん~二百ちょいかな」
「私は二百六十三だ、私の勝ちだな」
「ちぇっ、まぁいいか大きいのは俺が倒したし」
「大きいのは含めないだろ」
「大きいのも含めますーといっても取り込んではないけど」
「じゃあノーカン」
「まぁいっか」
曜次と傑は顔を合わせてけらけら笑った。二人とも顔まで泥が跳ねていて、いっそすがすがしいほどにここまで汚れるともはや笑うしかない。大穴の真下で、トンネルの弱い明りと傑の呪霊の狐火に照らされながら、さてどうしようと二人が顔を見合わせたときだった。悟が「なぁ」と声をかけながらちょいちょいと手招きをする。二人がそちらを向くと、悟は下水管の壁に貼り付けられた古い金属のプレートを指差していた。すっかり腐食しさび付いているが、かろうじて文字が読める程度。ぼんやりとした明りの中では傑も
曜次も明瞭に文字を読むことは出来なかったが、代わりに悟が読み上げてくれた。
「ここさぁ」
「うん」
「昔は下水排出口として使われてたみたい」
「へぇ」
「そこに呪いが集まって生得領域を展開してたみたいなんだけど、今生得領域が解除されてさ」
そこまで悟が口にしたところで二人はドドドドド、と大地を揺るがすような大きな音と振動が徐々に徐々に、迫ってくるのを体感した。これは、まさか、と二人は顔を見合わせる。
「この間まで梅雨だろ、生得領域で閉ざされてた部分に山の水がごっそり流れ込んでる、っぽいんだよねこの古地図が正しければ」
悟がそこまで言えばもう
曜次にも傑にも何がいいたいか分っていた。生得領域が消失した今、ここに大量の下水と雨水が流れ込もうとしているのだ。
「走れ!」
傑に手を引かれ、
曜次は強制的に立ち上がらされると、向き身のままの刀を片手に、もう限界を超えている足を叱咤しなんとか走り出す。今度は一番目が良い悟るが先頭だ。先ほどの古い地図を見て下水管から出るべく走り出す三人は、ひたすらに走り続けた。
下水管を揺らす振動は加速度的に増していき、もうあまり時間がないことは確かだ。これだけの水が一体どこにあったのか。おそらくではあるが、この複雑な下水管の中に網目のように複雑な生得領域が展開されていたのだ。生得領域はダムのようにいくつかの道を塞ぎ、そこに貯まるだけ水が貯まっていたのだろう。生得領域が消えたことで解放された水は、猛烈な勢いで細い下水管の中を流れていくというわけだ。
三人はひたすら走りに走って、そして最終的に行き当たったのはコンクリートで完全にふさがれた壁だった。
「嘘だろ!? 悟他に道は!?」
「ない! 本当はここが出口のはずなんだ、でもここはもうほとんど使われてないから斜面補強のためにコンクリートで埋められてる!」
「傑! 取り込んだ呪霊貸せ! 俺が切る!」
「無理だろ!」
「僕がやる」
傑と
曜次がぎゃあぎゃあと騒いでいると、悟がコンクリートの壁に手を当てた。
お互いにらみ合っていた二人が、ぴたりと静止して悟を見た。そういえば、今まで一度も悟の呪術を見たことがない。
無下限呪術、収束・反転
悟が手を当てた瞬間。轟音と共にコンクリートの壁が吹き飛ぶ。鉄筋ごと捩れ吹き飛んだ破片、と呼ぶほど小さくない塊が森の中に落ちていく。ここはちょうど
曜次たちがトンネルに入った、トンネル入り口のカーブの真下に当たるのだろう。コンクリートの破砕音に混じって木島の声が聞こえた気がしたが、上を見る暇はなかった。
「飛べ!」
下水と汚水の混じった大量の水はすでにすぐ後ろまで迫っている。傑が、
曜次の腕を掴んだまま叫ぶ。三人はそのまま真っ暗な森の中に飛び出した。その背後を水が追って、一瞬三人は水をかぶるものの、なんとかかぶった程度ですむが、今度は重力に引かれてまっさかさまに落ちていく。
「うわああああ!」
この高さから落ちたらさすがに無傷ではすまないだろう。
曜次は空中で刀を構えたが、それを止めたのは傑だ。
「悟、
曜次をしっかり捕まえとけ!」
傑が手をかざすと、そこから闇が広がった。一瞬呪霊の残りか、と思うが、その闇からずるりと何かが出てくると真っ黒な闇は再び閉じてしまう。傑がかざした手から出てきたのは巨大な何かだ。それは頭部のない巨大な鷹であった。本来頭があるはずのところがまるでハサミで切り取ってしまったかのようにさっぱりとなくなっている。その代わりにそこには翁の面が被せられており、けらけらけらと三人を笑いながら、落ちていくの真下にもぐりこむと、そのまま真上に一気に上昇した。
「悟捕まれ!」
傑は片手で鷹の羽をしっかりと掴みもう片手で
曜次を掴んでいる。悟も滑り落ちそうになりながらなんとか鷹の羽にしがみつく。
完全に態勢を誤った
曜次は悟が支える腕のみでぶら下がっており「離さないでぇ!」と情けない叫び声を上げた。
「はな、すか!」
悟はぎりぎりと歯を噛み締めた。
鷹がトンネルの入り口で、驚いた顔をしている木島のほうへ飛んでいく。そのまま着地すると、三人は勢いのまま鷹の背から転げ落ち、アスファルトの上に叩きつけられてぐえっ、とカエルが潰れたような声を出す。
三人とももう限界だった。アスファルトに叩きつけられたのは痛いが、それ以上にもうこれ以上が体が動かない。木島が駆け寄ってくるのを視界の端に捕らえながら、傑は鷹を再び体の中に戻す。
傑の呪術は一度体内に取り込んでしまえば後はどこでも自由に顕現させ再び体内に納めることができる。使い捨ての呪霊もあるが、空を飛べるものは貴重なので、傑は使い捨てにはしてなかった。
道路の上で転がったまま動かない三人はじわりと朝日が昇りつつあるのを見て思わず笑った。戦っている時はそんなに時間が経っているようには思えなかったが、生得領域で過ごした時間は彼らが思っていたよりもはるかに長い時間だったらしい。そしてひとしきり笑った後、三人はそのまま折り重なってその場ですとんと眠りにつくように意識が落ちた。丸一晩戦い通しであったのだから当然であろう。ぐうぐうとひどい悪臭を全身に纏ったまま寝る三人を後部座席に押し込んで再び呪術高専まで連れ帰ってくれたのは木島だった。
* * *
呪術高専にたどり着く頃にはまた日が暮れていて。木島に着きましたよ、と声をかけられるまで三人は一度も目を覚まさなかった。目を覚ましたら覚ましたで、ひどい悪臭が車の中に充満しており、うげっと三人は団子になって後部座席から転がり落ちる。その目の前に夜蛾が、いかにも不機嫌と言う顔で待っていたが、血と膿と汚水とでどろどろになった三人が後部座席から降りるとすぐに駆け寄って一人ずつ頭を撫でた。なんとなく気恥ずかしいような、それよりも早くこの汚れた服をどうにかしたい気持ちでいっぱいだった三人だが、風呂に送られる前にまずは保健室に放り込まれた。
その後一人一人の健診でわかったことだが、三人ともかなりの怪我であったらしい。悟が一番少なかったが、トンネルから相当距離叩き落された
曜次は肋骨が複数個所骨折しており、さらには捻挫に擦り傷切り傷とてんこもりだ。幸い破傷風などにはかかってなかったようだが、それはまさに不幸中の幸いと言う奴であろう。
散々トンネルと下水管を壊したわけだが、後の報告であそこに潜んでいたのは特級に近い一級呪霊であり、明らかに三人の手に余るということで色々と壊した分のお咎めはなかった。
それを怒られてもこまるのだけれど、と
曜次がぼやいたことに対しても夜蛾は特に何も言うことはなかった。
「ひどい任務だった」
「まぁ、なんとなくなんであれが俺たちに……じゃないや俺に当たったのかはなんとなくわかるけどね」
「どういう意味?」
悟は不思議そうに聞き返したが
曜次は「多分、そのうち分かるよ」と適当に返した。
傑がそんなやる気のない返答をした
曜次の言葉に顔をしかめていたが、傑もまた何かを言うことはなかった。
2018.11.06