ヨゴトノリトのパラドクス

心配

梅雨がまたやってきた。天野曜次が高専にやってきてこれでちょうど一年になる。天野曜次は何も変わらず、いつも通り刀を携え任務があれば現地に赴き、仕事があればいつも通り剣舞を演じ、何も変わることがない。
 変わった、というならば傑がそうだ。傑はこの春にあった星漿体保護及び抹消の任務以来、目に見えて元気がない。というよりも何か考え込んでいる様子だった。曜次は星漿体の任務で何があったのか、詳しいことを知らなかったが、悟も傑も相当に苦戦し、一度は死にかけたということだけは話に聞いていた。星漿体が結局どうなったのかは知らないのだ。
 傑は食が細り、いつも何かを考え込むようになった。遠くの空を見つめて、ぼうっとしていることも多くなった。話しかければいつものように返してくれるものの、話が終わってしまえばまた傑だけの世界に入り込んでしまう。彼が一体何に悩んでいるのか、はたまた何を考えているのかは曜次にはわからない。何かを察するほど曜次は器用でも繊細でもなかったからだ。
 だからついにしびれを切らして曜次は傑の部屋を訪れた。
 一つノックをして、特に反応がないので扉を開ける。寮の扉はすべて引き戸になっている。鍵がなければするすると横に滑っていく。軋むことなく滑らかに滑る様は、手入れが行き届いていることを示していた。
 傑はベッドの上に寝転んで天井を見つめていた。
「傑」
「……ああ曜次か、悪いね気づかなかったよ」
 部屋の中は閑散としていた。曜次も部屋に物が多い方ではないのだが、傑もまたあまり部屋に物を持ち込むタイプではないのですっきりとしている。白と黒のモノトーンで整理された傑の部屋は、もともとの部屋の配色と相まって、部屋全体のデザインはシンプルで無駄がない。私物は少なかったがその代わりに置いてあるものにはこだわりが見えた。引き出しの中までは見えなかったが、傑のことだから中もきっとすっきりと片付けられているに違いなかった。
 曜次はぼふん、と勢いをつけてベッドに座った。スプリングが軋んで傑の体がちょっとだけ跳ねたが気にしない。刀をベッドの上に置いて、その上に左手を置く。ぐっと力を込めて傑の方へ乗り出すとベッドはその力を受け入れてぐっとへこんだのだった。
「なぁ傑。何考えてるの」
 曜次は高専に来て、傑と出会って随分と変わった。昔であれば婉曲的に物事を話すと言うことも知らず、相手の心を推し量ることも知らず、ただただ直球に話していたというのに、傑がゆっくりと曜次に人の気持ちを思い量ること、相手を尊重することを教えたのだ。その中には自分の心を守ること、も含まれていた。そうして一年の間ゆっくりといろいろなことを教えられた曜次だったが、それでもさりげなく聞き出すような器用さは持ち合わせていなかった。だからまっすぐに聞く。
「いや、何も。考え込んでいるように見えたかな」
「嘘つき。星漿体の任務からずっとだ。ずっと何か考えているだろ」
 星漿体、と名前が出た瞬間、傑の顔色がさっと変わった。傑は天井に伸ばしていた手をぱたんと体の横に倒して、そして自分自身も曜次に背を向けてしまう。
「何もないよ、ただここのところ任務が続いていてね、ちょっと疲れただけさ」
「それも嘘だ。最近任務入ってなかったじゃん。俺だって暇だったのに、傑も暇だったんだろ」
「……」
 傑は何も言わない。
「なぁ」
曜次
「何を考えているんだよ、何を心配してるんだよ」
曜次
 傑の語調が強くなる。
「傑、何を思ってるんだよ!」
「やめてくれ!」
 その時初めて傑は怒鳴った。曜次の前で傑が怒鳴るのは初めてのことかもしれなかった。びりびりと部屋の空気が震えて、曜次はぴたりと口をつぐんだ。
「やめてくれ、今はなにも話したくない」
 傑は一息ついてから言葉を続ける。
 明確な遮断だった。明らかな拒絶だった。
 曜次はぎゅむっと口を閉じてベッドから立ち上がる。そして傑の方を向いて曜次もまた怒鳴った。
「俺が心配してるのに! 傑は全然誰にも頼ろうとしないじゃないか! 俺と傑は友達じゃなかったのかよ! ふんっ!」
 梅雨時で、じめじめしていた空気のせいもあるのだ。なんとなくイライラしてしまうそんな気持ちに火をつけてしまった。曜次は自分自身が怒鳴ったことに、自分のことながら驚いたのか、少し狼狽した風を見せながら傑の部屋を飛び出した。バンッと思い切り叩きつけた引き戸は壁にぶつかって跳ね返る。
 曜次はすぐ隣の自分の部屋に入ると、普段はかけない鍵をかけてベッドの上に飛び込んで包布を頭からかぶって刀をぎゅっと握りしめた。
(俺は悪くない)
 ちょっとお互いイライラしていたのだ。普段は怒鳴ったり感情的になったりしない傑が怒鳴ったので驚いて反射的に怒鳴ってしまったのもある。梅雨時でこのじめじめとした空気がいら立ちを助長していたのも事実だ。でも怒鳴らなければ話し合いができたのだろうか? 曜次にはわからなかった。だから余計に悲しかった。傑に拒否されることがとにかく悲しくて、やりきれなくて、そんなことを考えているとじわりと涙が浮かぶ。
(泣いてない! 泣かない!)
 曜次は布団の中でごしごしと目をこするが、涙は次から次へとあふれてくる。いつも、どんなときでも受け入れてくれた傑に拒絶されることがこんなに悲しいことだなんて思ったこともなかった。曜次は何度も目をこすりながら声を押し殺して泣いた。誰かと喧嘩して泣くなんて初めてのことだ。いやそれ以前に泣くことが曜次にとってはあまりにも日常から離れたことだったから、曜次は自分がなぜ泣いているのか、それすらもわからなかった。傑に怒鳴られたから? 傑に拒否されたから? それとも自分が傑に怒鳴ってしまったから? 考えてもまとまらない。いつもこういうときに考えをまとめてくれるのは傑だった。だがその傑は今隣にいない。自分で考えなければならなかったが、一度も自分の感情について考えたことのない曜次には土台、無理な話であった。
 ベッドの上で名前の付けられない感情に振り回されてしくしくと泣いていると、トントン、と控えめなノックの音がする。きっと傑だ。だがどんな顔をして出ていけばいい?
曜次?」
 傑は引き戸を開けようとしたようだが、鍵がかかっているためそれは叶わなかった。
曜次
 傑はゆっくりと話す。
「怒鳴ってすまなかった。私も、少しイライラしていたんだ。こんな季節だからね。外にも出れないし。……いやそんなことを言いにきたんじゃないな」
 扉の向こうの傑は息を吸って吐いた。
「ごめん曜次。まだ本当に自分の中ですらこの感情に名前を付けることができないんだ。できたらきっと話すから。友達と呼んでくれてありがとう」
 嬉しかったよ、と遠くに聞こえた。曜次はようやっとベッドから出て泣きはらした目のまま、部屋の扉の鍵を開け、引き戸を開いたが、もう廊下には誰もいなかった。
 しんと静まり返った廊下に雨の音が響いている。ああ、それはきっと泣き切れなかった曜次の涙なのだ。
 
 呪術師は夏にかけて忙しくなる。梅雨が明け、夏になり任務の数が多くなると自然と曜次と傑はすれ違うことが多くなった。あの日の喧嘩以来、曜次も傑もお互い廊下ですれ違って挨拶をするばかりで、一年の頃のように一緒にいる時間はぐんと減った。
 一年の頃は、一般家庭の出身である傑のことを慮って一級と二級で同じ任務に就くことも多かったが、傑が準一級に上がったことで一緒の任務も少なくなったのだ。勿論悟との任務も減った。特に悟は完全に術式が覚醒したこともあり、五条家からなにがしか圧力があったのだろう、遠方の任務を任されることは少なくなった。その代わりのように曜次と傑には次から次へと遠方のそれなりに危険のある任務が入れられるようになって、高専に帰ってくるのは真夜中、すぐに就寝して、次の日も朝早くから任務に出かけるのが日常となった。当然傑と話す間もない。
 ただ廊下ですれ違う傑の表情はどこかやつれて見えて、曜次にはとにかく傑のことが心配でならなかった。
 曜次は昔、傑のように元気をなくし、そのまま呪術師を止めてしまう人を見たことがある。呪術師という存在そのものが、重荷となってしまうのだ。
 曜次にとって呪術師とは、両面宿儺を斬るために存在するものだった。一般人が死のうが、呪霊がいくら生まれようがそんなものは関係ない。曜次の代(五十四代目)である必要もない。ただいつの日かの曜次が両面宿儺を斬ればいい。ただそれだけのために存在している。だから曜次には呪術師をやる上で一切の迷いがないのである。
 だが傑は違うようだった。一般家庭の出である傑にとって呪術師とは、呪術とは非術師を守るためのものだと思っている。それは時に自分を肯定する強い理由にもなるが、曜次のそれと違い、ぐるりと反転してしまう危険性も含んだものだった。昔傑が言っていた。「呪術は非術師を守るためにあるのだと」。曜次からすればそれは何の理由にもならない正論のようなものだった。傑を否定するわけではないが、それは茨の道だ。何かきっかけがあればひっくり返ってしまうような、厳しい道だ。だから曜次は傑のことを心配していた。傑が思い悩むものが、「呪術師の存在意義」ならば、いつか何かの拍子にひっくり返ってしまいやしないか、いつの日かふっと自分の前から傑が消えてしまいやしないか心配だったのである。
 曜次と傑はお互い話すこともできずに月日は容赦なく過ぎていく。やがて夏の暑さも和らぎ、秋の風が木々の葉を落とすようになって、呪術高専では交流会の話題が出始めた。

20200723