ヨゴトノリトのパラドクス

一級推薦

「えっ? 一級? そんなの俺聞いてないよ」
 教室に入って開口一番、夜蛾から告げられた一言に曜次は絶望したという表現が正しいくらい肩を落としてそんなことを言った。
「言った通りだ。天野家の一級術師より五条悟及び夏油傑へ一級の推薦があった。お前はもう一級だろう、何か問題があるか?」
「えーっ! じゃあしばらく傑も悟もいないの? そんなのつまんないじゃん。俺を一級任務の同行者にしてくれればよかったのにー」
「被推薦者の同行には基本的に被推薦者と縁がないものが選ばれる。これは規則の問題だ。お前がいくら強くても規則で決まっているんだから仕方ないだろう」
「けちけち!」
 けっと曜次は椅子を蹴っ飛ばす、そのまま蹴り飛ばした椅子に腰掛けると教科書を自分の前に立てて、寝る体制に入った。初めからまるで授業を受ける気がない曜次の様子に夜蛾はため息をついたが、不貞腐れた曜次を相手にするのはとにかく面倒であったため、夜蛾は寝ることに専念した曜次を放置して授業を進める。硝子がノートに文字を書くカリカリという音と、夜蛾が黒板にチョークで文字を書くカツカツという音以外しんとしている。時々冬を招こうとしている風が窓枠をガタガタと揺らしたがそれ以外は静かなものだった。すぅすぅと穏やかな寝息をたてて眠る曜次を邪魔するものはない。そうして結局曜次が目を覚ましたのは、すべての授業が終わる夕方の四時で、気づけば教室には硝子しかいなかった。
「あれ、授業終わったの」
「外見てみなよ」
 証拠に言われるがまま、曜次は視線を窓の外にやる。
 鮮やかな夕日が山の端を明るく照らし出している。山の輪郭は明瞭に、一方で山は黒く塗りつぶされたかのように色がない。ヒグラシが鳴かなくなって随分と経つ。もう夏は当の昔に終わっており、これからやってくるのは寒い冬だ。教室の窓は締め切られて、時々吹く風にがたがたと窓枠を揺らしていた。
 曜次は大きく背中をそらせて伸びをする。椅子の前脚が床から離れて曜次は器用に椅子の後ろ脚だけでバランスをとる。
「傑と悟がいないなんて、暇。っていうかずるい」
「私がいるじゃん」
「そぉだけどさぁ」
 夜に一緒にゲームできないし、こっそり食堂に忍び込んでラーメン作ったりしないし、俺を構ってくれないだろ? とわがままをつらつらと連ねた曜次は唇を尖らせて文句を言う。
「でもこれで一緒に同じ仕事できるなっ等級が同じになるわけだし」
「何言ってんの、逆でしょ。一級に上がったら個別で任務に行かされるに決まってるじゃん」
「えっ」
「今までは天野が一級だったから、二級の術師と一緒の任務が多かったってだけでしょ」
「そうなの? そんなのつまんないよ、やだやだ」
「一級に上がるってそういうことでしょ」
「えーつまんない」
「何? 天野は夏油と五条と一緒に任務に行きたいから拗ねてるわけ」
「かな?」
「自分のことじゃん」
「よくわかんないよ。いつもは傑が一つ一つ解読してくれるけど、今日は傑いねぇから、なんで俺が拗ねてんのかよくわかんない」
 曜次は昔からそうだ。感情の起伏が少なく、自分の感情に名前を付けることをしらない。だから今自分がなぜ拗ねているのかもわからない。わからないから解決する方法も見つけられない。
 ただ曜次が自分では見つけられない答えを言ってしまえば、曜次のそれは等級が同じになる喜びと、そうなると任務がばらばらになってしまう寂しさだ。本人は認めないかもしれないが、二人もしくは三人で行く任務をとても楽しみにしていたのである。そうならなくなってしまうというのは悲しい。それが曜次の名前を付けられない感情だ。
「あっそうだ」
「何?」
 硝子はふと思い出したかのようにつぶやいた。
「明日私と一緒の任務だって」
「硝子と? 珍しいね。俺と硝子が組むの」
「そうだね。私は基本外に出ないから」
「外に出ないならどうすんの? 俺反転術式に関しては役に立たないよ。やり方しらないし」
「表に出るんだってさ。内で反転術式ばっかりやってると、表に出る仕事の耐性がなくなるから、学生のうちは定期的に外へ出て他の術師と一緒に任務をこなしてこいって」
「ふーん、それで俺? ってことは俺明日は硝子のお守り?」
「そういうこと」
 証拠はそう言うとポケットから煙草を取り出す。
「うえっ、俺それ嫌いだから外で吸ってよ」
「教室じゃ吸わないよ。だって臭いでばれるじゃん」
 確かにね、と曜次がからから笑ってやると、硝子は席を立ってひらひらと手を振りながらどこかへ行ってしまった。
 たった一人の教室はどこか物寂しさを感じさせる。昔は一人だった。自分と並ぶ剣術の使い手もなく、幼い頃の曜次の部屋に誰かが遊びに来ることもなく、逆に遊びに行くこともなく、一人だったから別にまた一人に戻っても平気だと思っていたのに、いざ本当に一人にされてしまうと寂しくてたまらない。この寂しいという気持ちさえ、曜次には名前を付けることができなかったのだけれど、心の中にぽっかりと穴が空いたような、つかみどころのない感覚に曜次はとんとんとんと足で床を叩く。
 こんな時傑だったらどんな風に俺の感情に名前をつけるのかな、なんてことを考えながら、曜次は刀袋を背負って教室を出た。
 しんと静まり返った校舎の窓から夕日が差し込んで、校舎そのものを赤く照らし出している。こういう時間帯はなんとなく何かが起きる、そんな気にさせるものを持っていた。それはしょせん人がいないから寂しいということを言い換えただけの話だが。
 曜次は赤く照らされた校舎の中をぽつねんと一人寮へと歩みを進める。もともと生徒数が少ない学校であるから、すれ違う人間はいなかった。そのまま自室にたどり着いて、ベッドに刀袋と刀を投げ出し自分も寝っ転がると、チカッと山の端に消えようとしている光が曜次の網膜に焼き付く。
 きれいな夕日だ。でも傑がいたらもっと楽しいことがあっただろうな。いつ傑と悟は帰ってくるのかな。もしかして一級になるまで帰ってこないのかな、それは、それはちょっと寂しい。
 言葉にならない胸の疼きを抱えながら、曜次はシャワーも浴びず着替えることもせず制服姿のまま刀を抱いて寝た。部屋の扉の鍵をかけたかさえも覚えていない。ただ誰もいなくてつまらない、こういう時はいつも寝ることに執心していたから、寝付くのは簡単だった。昼間あれだけ寝ても、曜次が次に目を覚ました時には朝日が窓から差し込んでいた。
 日常のように携帯を見ると硝子からメールが来ている。本日の集合は十時、高専の実験室。午前中は解剖をやって午後から呪霊討伐に出かけるらしい。ふぅんと思って携帯の時間を見れば、時刻はすでに九時五十分をすぎようとしていた。
「やば」
 授業はさぼっても傑にノートを見せてもらえるからいいが、任務はさぼるわけにはいかない。幸いと言おうか、制服のまま寝ていたので、着替える手間はなかった。ぱっぱと軽く制服のしわをはたいてのばして、刀袋を抱えると、ウエストポーチに財布と呪符とその他普段から携帯しているものがあるかだけ確認して、部屋の扉の鍵もかけずに飛び出した。
 実験室ってどこだっけ? と間抜けなことを思いながら気づけば九時五十八分。だだだだだ、と騒々しく校舎内を走り回っても咎めるものはいない。
 ふと血の臭いがした。これは、と思い血の臭いが濃くなる方向へ走っていくと、電気のついていない教室が並ぶ中、一か所だけ戸口から電気が漏れ出ている部屋があった。
「セーフ!?」
「遅刻だよ、五分前集合って書かなかったっけ」
「読んでないや、で俺は何をするの?」
「何も? まずは見学」
 証拠は手袋をはめた指で壁際の椅子を指さした。曜次は実験台の上の遺体の顔を拝んでから、知らない顔だと思いながら、指示された通り椅子に座る。
「家入始めるぞ」
 そう言ったのは高専の教師の一人である秋宮望(あきみや・のぞむ)という男性だった。高専にいる数少ない反転術式が使える術者で、特に家入硝子の指導を受け持っているという。才能だけで見れば家入硝子の方が圧倒的に上だが、硝子にはまだ経験が少ない。だからこうして遺体を解剖するところから、反転術式を実際に使うところまで事細かに指導をしているということだ。
 硝子は天才だ。悟とは別のベクトルの天才。悟にも傑にも曜次にも代わることができない技術を持っている。だから硝子は高専でも大事に大事に囲われている。反転術式を使える術師をみすみす死の危険が付きまとう外の任務に出したくない、というのが本音だろう。事実硝子は曜次たちと一緒に外の任務に行くことはほとんどなかった。それでも、自分の身を守るために外の任務に出ることは必要だった。高専の敷地内にいるから呪霊におそわれる確率は低いがゼロではない。それに硝子自身が外に出かけることもある。そうなったときに呪霊と戦う技術が必要だ。いや、戦うまでいかなくてもいい。呪霊を見てひるまず逃げ出せれば硝子にとっては十分だろう。だから、実地訓練は必要となる。呪霊に慣れるには呪霊と対峙しなければならない。だから曜次と一緒に任務を受けることになった。
 秋宮と硝子は曜次の知らない言葉を話しながら、遺体にメスを入れていく。仲間の体にメスを入れる気分はどんなものなのだろうか。元仲間であっても敵となるなら斬ることをためらわない曜次にはわからない感傷だったが、硝子も初めはそれなりに思いいることがあったらしい。しばらくの間教室に出てこれなくなったり、暗くした部屋でじっとうずくまっていた、そんな時期もあったそうだ。曜次はそれを知らなかったし今後も知ることはないだろう。それは硝子の問題だ。
 硝子は器用にメスを使いながら解剖を進めていった。今回は高専の補助監督の遺体の解剖ということだった。
 基本的に高専関係者の遺体は遺族に返還されない。それは遺体を受け取った遺族側に強い負の感情を植え付けるのと同義だからだ。高専関係者になった時点で、遺体は返されない、死に目にもあえないということは高専関係者になるときの書面で約束させられる。それは関係者の家族も同じだった。
 だからこの顔も知らない男の家族は、今日も明日も明々後日も、男が死んだことを知らずに生きていくんだろう。それが悲しいことなのか、曜次にはよくわからなかった。
 この解剖は遺体に残された残穢を検出する解剖だ。司法解剖に近いものがある。残穢を特定し、呪霊を祓うための情報を得る。それがこの解剖の意味だ。それから遺体に残った残留思念、それが呪霊になるのを防ぐという意味合いもある。今回の遺体は手足は折れあらぬ方向へ曲がり、内臓も食い散らかされひどい有様であったから、死ぬ間際の強い思念は並大抵のものではないだろう。それがそのまま呪霊になることだって十分に考えられる。
 高専には死体解剖から安置、そして火葬まですべての設備が揃っているから、高専に入った時点で、納められる墓も決まっている。
 曜次や悟は例外だ。曜次は呪術の名家の出身であったから、遺体はきっと天野の里へ返されるだろう。そして里で葬儀を執り行い里の墓地に埋められる。悟だってきっとそうだ。もしかしたら悟はもっとひどいかもしれない。うん百年ぶりの六眼の持ち主だから、眼はきっとえぐり取られて保管されるに違いなかった。可能であれば他者への移植も行われるだろう。最強も死体となってしまえば、あとは好きに弄ばれる。悟が死ぬところなんてこれっぽっちも思いつかなかったが、呪術師というのは最初から最後までひどいものだなぁとぼんやりと曜次は思った。
天野
 ぼんやりとあらぬことを考えていた曜次は、硝子に名前を呼ばれて急に現実へと引き戻された。二三度まばたきをして、「なに?」と言えば「ちょっとこっち来て」と硝子に手招きされる。
 何だろうと思えば、すでにある程度整えられた遺体の一部に何かが食い込んでいる。
「多分呪霊の一部だと思う。この残穢を使って呪霊を探すから、残穢しっかり覚えておいて」
「ああ、そういう。それでこれ何?」
「人間の歯のように見えるけど、先生」
「うーん僕にもわからないな。人間でないことは確かだけれど、つまり呪霊は人間の口に似た構造を持っている可能性があると言うことだね。それだけでも知っておけば心構えが違うから、家入はよく覚えておくといいよ」
 秋宮はそんなことをつらつらと言った。曜次に言わなかったのは、曜次にとってはもう呪霊の悍ましい姿なんてものは日常茶飯事になっているからだろう。
 呪霊は人の負の感情を持って具現する。具体的にどうなるかは一概には言えないが、口を恐れていれば無数の口がついた呪霊が生まれ、手を恐れていれば無数の手が呪霊に反映される。
 硝子はゆっくりと遺体に食い込んだ歯のような一部分をピンセットで取り上げたが、遺体から取り外されると同時にさらさらと粉になって消えてしまった。
「スケッチ間に合わなかったな。食い込んだままにしておけばよかった」
「ええ……そういうのスケッチするの?」
「写真には写らないから、面倒でもスケッチするの。それが現場の術師の参考になるかもしれないし」
 今回に限って言えば、と硝子は言葉を続ける。
曜次はもう見たから十分でしょ。あと少しで終わるから」
「ふーん、そう」
「興味なさそうだね」
「だって俺の仕事じゃないしさぁ。やっぱ俺は体動かして呪霊を討伐してる方が好きだな」
天野もほどほどに狂ってるね」
「そう?」
「そう。自覚のない狂人」
「そうなんだ」
 興味なさげに首をかしげて、曜次は先ほどまで座っていた椅子に座りなおす。残穢は覚えた。あとは呪霊を探すだけだ。硝子の仕事の方もあと少しで終わるらしく、今は最後の後片付けといったところだろう。無惨な遺体をある程度人の形に整えてあげる。いわゆるエンバーミングという作業である。開いた肉は縫って治し、折れた手足を元の場所に戻す。それだけの作業に秋宮と硝子の二人は時間をかけて行い、気づけば昼を超えていた。
 遺体は秋宮が安置室に持っていくという。午後からは実地の任務がある。簡単な片づけを硝子に回したのは、さっさと片付けて食事をとりにいけ、という意味だ。
 硝子は手袋を外して捨てて、白衣を脱ぐ。それほど血はついていなかったが、毎回きちんと消毒する必要があるらしい。曜次の知らない世界だ。硝子が使用した器具などを丁寧に消毒し片付けている間も曜次は壁際に座ったまま動かなかった。仮に手伝え、と言われてもそもそもどの道具にどんな名称が与えられているのかわからない。どうせ役に立たないことを硝子もわかっているのだろう。片づけをしている間は一言もしゃべらなかった。そして一切合切片付けが終わった証拠は半分寝ていた曜次の肩を叩いて表を指さした。
「昼飯」
「あー……わかった」
 ふあ……と大きな欠伸をして曜次は立ち上がる。
 実験室を出て、しばらく歩く。校舎と校舎をつなぐ外廊下を通って、寮と食堂のある建物に入ると、同じ目的の学生たちがちらほらとみられるようになった。今まで一体どこにいたのかはわからないが、こうして集まってみると、そこそこ高専にも人がいるのだ、ということがわかる。実験室にいたときはまるで三人しか存在しないような静けさであったというのに。
 曜次と硝子は適当にランチを選んで食券を買った。広告されていたランチの内容が何かはほとんどみなかったが、高専の食堂の管理人は優秀だったから、大体どれを選んでも美味しい。むしろ何がくるかわからない方が楽しみがある。曜次と硝子はそうしてランチを食べ、迎えが来るまでの間の時間を食堂で潰した。
 硝子は爪をカリカリと弄っている。曜次は刀を引き出して具合を見ている。鞘から引き出された刀はギラリと剣呑な光を反射している。汚れは一つもない美しい刀だった。
「そういえばさ、天野って刀一本で戦うわけ?」
「そうだよ」
「折れたりとか、しないの?」
「一応予備、というか短刀を持ってるけど、折れるような使い方はしないから」
「もしも、の話」
「うーん、俺の家ってさ、刀鍛冶の家なのよ。だから刀と一緒に生まれて刀と一緒に成長するの。常に刀を傍に置いて、いつか復活する両面宿儺っていう化け物を斬るのがお役目なのよ。だから刀が折れるときがあったら、それは死ぬときだと思う」
「ふぅん、生きたいとか思わないの?」
「思うんじゃない?」
「他人事だね」
「まぁね俺も刀が折れるときなんて考えたこともないから」
 だから、折らないし折らせないと曜次は言った。硝子はそれを聞いて、まぁお守り役、頑張ってと心にもないようなことを言った。
 食堂で時間を潰していたのは実質三十分あまりのことだった。時間になるとどちらからともなく立ち上がり、必要な呪具を抱えて建物の外に出る。そのままいくつもある高専の入り口のうち、任務の送り迎えに主に使われる出入り口に行くとそこには窓まで漆黒に塗りこめられた車と補助監督が待っていた。
天野一級術師と家入三級術師?」
 にこっと笑った補助監督は女だった。よろしくねと手を出されたので曜次と硝子はそれを受け取る。
「今回の任務は家入三級術師は見学、天野一級術師がメインの任務になります。詳細は車に乗ってから」
 補助監督に促されるまま曜次と硝子は車の後部座席に乗り込んだ。運転席に座った補助監督から任務の詳細が記された書類を渡されて、曜次と硝子はそれを促されるままに読む。
 場所は神社の近く。最近になって人に食い殺されたような悲惨な遺体が出るようになったという。歯の構造から、遺体につけられた噛み跡は人間だ、と認定されたものの、歯だけでこんなに無惨な遺体は作ることができない、と警察が首をかしげていたところで呪術高専が事件を引き継いだというわけだ。
「前補助監督の遺体は、一般人の遺体が発見された場所より百メートルほど離れた場所で発見されました。遺体の状態は他の遺体同様。手足の骨を折られあちこちに噛み跡があるとのことです。調べていくうちに、一般人の遺体は、とある神社を中心に円状に配置されていることがわかりました。前補助監督が死亡した場所が一般人の遺体が発見された場所から離れているのはおそらく呪霊が」
「成長した?」
「はい、そうであると推測されます」
「呪霊の等級は?」
 曜次は手馴れた様子でぱらぱらと資料を流し見していく。途中途中硝子に止められたがあまり気にしない。
「現時点では三級、ですが、もし呪霊の行動範囲が広がっているとしたら二級に格上げされるかもしれません」
「犠牲者は?」
「現時点では五名、前補助監督を含めると六名です」
「遺体の特徴」
「すべて眼球を取り除かれていました」
「ふぅん」
 曜次は書類を硝子に預けて、刀を刀袋から取り出し腰のベルトに据えた。
「呪霊がいる有力箇所」
「今は誰も管理していない神社です」
「じゃあそこから行く。監督は危ないから百、いや二百メートルは離れてて。何もなければ俺たち足で戻るからさ」
「わかりました、お気をつけて」
 補助監督の言葉に曜次は頷く。
 約束の場所まではあっという間だった。神社から約二百メートル離れた場所に車を停めると曜次と硝子は降りる。
「硝子」
「何?」
「これ」
 曜次はウエストポーチから呪符を取り出すと硝子に渡した。
「これ、低級の呪いなら十分祓えるし、もし相手が格上でも少しは保つから念のため」
「いつも用意してるの?」
「まぁね。一般人が巻き込まれている時とかもあるからさ」
 曜次はそう言って地図を見た。
「神社まではここからまっすぐ。帳は神社に入ってからでいいだろ」
「帳は私が張るよ」
「そう?」
 悪いね、タイミングは任せるよ、と曜次は応えた。
 神社までの道にはこれといっておかしな箇所はない。ただ神社に近づくにつれところどころに呪霊の残穢が見られるようになった。点々と道に残された残穢は、湯気が立ち上るかのように呪いを振りまいている。相当な呪霊であることが思わされた、その一方で残穢を隠すほどの知性は持ち合わせていないことがわかる。
 呪霊は人が多いところほど強くそして狡猾になる。自らの残穢をあえて消したり、逆に誘い込むように残穢を残したりとそういったことができるようになるほどだ。そういう意味では今回の呪霊は人に及ぼす影響は大きい物の知性はさほどないことが考えられる。
 神社に近づくといくつか花が飾られている場所があった。
「一般人が死んだ場所じゃない」
「ああ、なるほどね」
 これ何? と間抜けなことを聞いた曜次に硝子はあきれるよりも早く答える。
「ここで人が死んだってこと。常識でしょ」
「そっか人が死ぬと花を手向けてもらえるんだな」
天野のところは違うの?」
「墓の掃除はするけど、花はあんまり。だって花買えないし」
 野草しか生えてないからね、実家、と曜次は続けた。
 閑静な住宅地のど真ん中で、昼日中だというのに誰とも出くわさなかった。悲惨な事件があったばかりだから、誰も彼も外出を自粛しているのかもしれない。おかげで刀のことについてとややかく言われなくていいな、と曜次は思い切り伸びをすると、前方を指さす。件の神社が近づいていた。
「ここか」
 石段はところどころに草が生え、石畳を持ち上げている。しばらくの間誰の手も入っていない、という情報は本当のようだ。真っ赤な鳥居もところどころ色がはげ、元になった木の色が見え隠れしている。
「いやー明らかにここだろ。残穢があっちこっちにへばりついてるわ」
「現場っていつもこんな感じなの?」
「まぁそうだね」
「……吐きそう」
「傍にいてくれないと守れないよ」
「わかってる」
 残穢の量も質も悍ましいんだ、と硝子は呟いた。今までは遺体にこびりついたかすかな残穢だけを相手にしていたからだろう。これだけ濃くへばりついた残穢に耐性がないのは当然と言えば当然だった。残穢の量、形、そして質から考えても、呪霊の拠点は明らかにこの神社であることがわかる。
 曜次は迷うことなく石段に足をかけた。それに合わせて硝子は帳を張る。帳は強制的に場を夜に変えるが、実際に夜のように暗くなるわけではない。外の光は十分に中に届くので、空は夜のように真っ暗なのに中は昼間のように明るいということになる。それに違和感を感じたのはもうずいぶん昔のことだ。今はすっかり慣れてしまった。
 硝子はぎゅっと曜次の洋服の裾を掴んできょろきょろと不安げに周囲を見渡した。背の低い木々に囲まれた石段は一段上るごとに残穢が臭気のように漂う、そんな錯覚を覚えるほどだった。硝子が服を掴んでいることに関してはとくに何も言わない曜次だったが、神社の本堂の屋根が見えるあたりになると、そっと硝子の手を握って、服から手を離させた。
 神社の境内はこれでもか、というほどに荒れ果てていた。もうずいぶん長い間人の手が入っていない、と事前情報にあったが、なるほど確かに人の手が入っていないらしい。本堂も手水舎も地面に敷かれた石畳もすべて草がぼうぼうと生えて緑に覆い隠されている。賽銭箱は壊され、中の金を根こそぎ持っていかれているようだ。罰当たりな話である。そんな中で目立ったのが絵馬掛所だ。たくさんの絵馬が吊るされたそれは、妙に新しく見える。風が吹くたびに絵馬同士がぶつかり合ってカシャンカシャンと音を立てていた。絵馬がこすれあう音、その中にじゃり、と地面を踏みしめるような音が混じったのは曜次が硝子を自分の後ろに隠すように移動させたときだった。
「硝子」
「うっ」
 絵馬が風ではない動き方をする。
 カシャンカシャンカシャン……
 木でできた絵馬同士がぶつかる音が神社の境内に響き渡る。絵馬掛所の背後から出てきたのは馬のような図体の呪霊だった。
 胴体は馬、足先には人の手と思しきものがついており、指を立てて地面に立っている。、頭は馬の顔ではなく人の顔をしていた。胴体には無数の薄暗い穴がいくつも開いており、人の口と思しきものもついている。それははくはくと呼吸でもするかのように開け閉めを繰り返していた。人の顔をした頭の部分は目の部分がごっそりと削げ落ち、眼球がなかった。ただただ虚ろな穴がそこにあるばかりだ。
『見ないでぇ、見ないでぇ』
 ゆっくりと開いた口からはそんな言葉がこぼれる。大きな口にはいまだ血の残骸がついており、なるほどあの口で犠牲者をかみちぎったのだろうということがわかる。その口には歯が一本欠けていた。恐らく前補助監督の遺体に食い込んでいた歯は、あそこの歯なのだろう。そしてその呪霊の一番の特徴は長い髪の毛と長い尾の先端に絵馬を大量にぶら下げているという点である。動くたびにカシャンと絵馬同士がぶつかって音を鳴らす。
「硝子! 下がれ!」
 曜次は一瞬の間で刀を抜き去り、硝子の体を後ろに追いやった。
 タタッと軽い動作で呪霊は走り出す。そして石畳の道以外を覆いつくしている砂利を一つ手に握り込んで、大きく後ろ足で立ち上がるとその石で殴りかかってきたのだ。
 硝子は曜次に押されて尻もちをつく。そして慌てて先ほど曜次からもらった呪符を手にした。
 呪霊は開いた片手で曜次の肩を掴み、握り込んだ石を振り下ろした。
 ガキン
 それは曜次の刀にぶつかって、動きを止める。ぎりぎりと押し込んでくる呪霊の力は強い。捕まれた肩も折れてしまいそうだ。脚は手のように自在に動くらしい。呪霊は肩を掴んだ手を気持ちの悪い動作で曜次の顔のところまで持ってくる。どうやら曜次の眼球に触れたいようだ。
『あ、あーーーー、あ? あ? 見ないでぇ?』
ただ声帯から流れ落ちる音を吐き出しているだけのようだ。同じ言葉を繰り返す。虚ろな目がそれとわかる程度に笑った。
 首が伸びて大きな口が曜次の頭に迫る。
「チッ!」
 曜次は一つ舌打ちをして、石を払い、顔にかけられた手を刀で切り落とし、返す刃で歯を受け止めた。
 ガチガチと歯と金属がぶつかり合う音が響く。長い髪にぶら下げられた絵馬が曜次の顔にかかる。曜次は顔をしかめてからぐいと力任せに呪霊の顔をねじって蹴り飛ばした。そして三歩下がり刀を中段に構える。
『あ、あ、あ』
 呪霊はなくなってしまった片腕を見せつけるようにこちらに差し出してくる。切り落とした手の先端からは呪いが血のように吹き出した。
「他の腕も同じようにしてやるよ」
 にやりと曜次は笑って言った。そこから曜次の動きは早かった。呪霊が駆け出すよりもなお早く、数歩の距離を一瞬の間に詰めると、手足をすべて切り落とす。カシャンカシャンとうるさい絵馬もすべて一太刀の下に斬ると絵馬は地面に落ちて石とぶつかりカタンカターンと軽い音を立てた。絵馬は斬られた瞬間にぶわりと絵馬の中に封じられていた様々な感情が噴き出した。妬み恨み、本来ならば神に願う場所であるはずなのに他の人の絵馬を見て生まれた負の感情がこの呪霊を構成している。だから目がないのだろう。人の願いが叶うところなど見たくないというのがこの呪霊の本質だから。
『ああーーーーー!!』
 呪霊は聞くも悍ましい声を上げて地面に転がる。硝子はぎゅっと耳と目を閉じてその場で丸まった。
「硝子! 目を開けろ! 呪霊から目をそらすな!」
 曜次は怒鳴る。優しく言う余裕はなかった。呪霊との戦いは常に気を許せない。相手は人外の存在だ、どのような攻撃を仕掛けてくるか常に感覚をフルに稼働させて注視していなければならないのだ。
 だが、この呪霊に関して言えば、曜次の敵ではなかった。
『あ』
 呪霊は呻くこともなく頭から尻まで縦に真っ二つになって形を保つことができずぐしゃり、と崩れ落ちた。硝子は曜次の叫びに応じて目を開いたが、曜次がいつ刀を振ったのかは認識することができなかった。
「硝子、無事か?」
「あ、……うん」
 硝子は実地経験の差を感じながら、曜次に差し出された手を取って立ち上がる。座り込んでいた場所が砂利の上だったからお尻はすっかり痛くなっていた。いや、呪霊が消えてようやっと痛みを思い出したかのようであった。
「あれが呪霊……」
「硝子も何度かは見たことあるだろ」
「高専に入ってからは一度も。見るのは死体ばっかりだから」
「そっか。呪霊の体は消えちゃうもんな」
 そう言っている傍から真っ二つにされた呪霊は形を崩してぐずぐずと境内に吸い込まれるように消えていくところだった。
「気持ち悪い、吐きそう。こういうの、慣れ?」
「慣れだなぁ。硝子が死体を見て怖いって思わないのと同じで何度も見てればどんなにえげつない形のが来ても生き残る本能が先に来るようになる。生き残るためには目を開いて耳を傾けなけりゃいけないから。これができなくて止めていく術師いるんだろ」
「……うん、いるとは聞く」
 硝子は小さく頷いた。
「大丈夫だよ、あと二三回付き合えば嫌でも慣れるって。硝子は今日が初めてなんだろ」
「任務として同行するのは」
「じゃ今度は病院とかがいいよ。ああいうところってごろごろ出てくるから慣れるのにはちょうどいいんだ」
「……曜次ってちょっと感性ずれてるよね」
「そう?」
 そうかなぁとぼやきながら曜次は刀を鞘に納めた。
「行こうぜ。呪霊斬ったし、あとは報告書作るだけだし。硝子、報告書作るの手伝ってよ。俺苦手なんだよねそういう作業」
「いいよ、呪符のお礼にね」
 曜次と硝子はそう言いながら石段を下りていく。石段を下り切った頃には硝子もだいぶ吹っ切れたようで、いつもの調子に戻っていた。帳を上げると同時に補助監督が駆け寄ってくる。
「ええー二百メートルは離れててって言ったじゃないですか」
「帳が張られたんで急いで見に来たんですよ、無事でよかった」
「あの程度の呪霊になんかやられませんよ」
 曜次はへらっと笑った。

20200521 執筆
20200528 加筆修正
20200619 加筆修正