ヨゴトノリトのパラドクス

剣舞 参

いつしか日は山の端にかかり、山の輪郭をオレンジ色に映し出していた。いつの間にか境内には大勢の人が集まっており、その誰もがこれから始まる神楽舞、つまりは曜次の剣舞を待ちわびていた。これだけの人が集まっているというのにしんと静まり返った時間が一秒、二秒、……一分、二分と続いていく。時折誰かが耳に触れるように小さく囁いたが、その囁きまでも聞き取れそうなほどに静寂がその場を支配していた。
その後はまたせわしなかった。傑と悟も着物に着替えさせられ、雅楽を奏でる顔ぶれの後ろにちょこんと控えている。
 パチパチと炎がはぜる。境内のそこかしこにたてられたかがり火が神楽殿を明々と照らし出していた。皆これを待っているのだ。楽士と共に神楽殿の端に座った夏油傑と五条悟にも人々の期待や不安がひしひしと感じられるほど、神楽殿に向けられた意識は大きいものだった。曜次が舞う神楽への期待、自分が持ち込んだ呪いが本当に解けるのかという不安、それらがごちゃ混ぜになって、今、登場した曜次に向けられている。
 雅楽と共にゆったりとした足取りで現れた曜次は低く頭を垂れて礼をすると、立ち上がり、すらりと刀を抜く。かがり火が刀身に反射して、ぎらりと剣呑な光を人々にまき散らす。本物の刀だ、だがもちろん人々は曜次の持つ刀が本物であることも、この刀こそが呪いを祓う鍵であることも知らない。ただ形式的な剣舞の一つだと思っている。傑と悟と神社に連なるものだけが知っている事実。その秘密を共有するような感覚は二人の心をなんとなくむず痒いような気持ちにさせた。
 そんな傑と悟の内心など知ったことではないとばかりに曜次は抜き放った刀を構え、楽師たちが奏でる曲に合わせて踏み込み、刀を引き、振り下ろし、振り上げる。その様はまるで見えない誰かと刀を合わせているようでもあり、ただただ舞を舞っているようでもあった。
 最終合わせの稽古をみていたはずなのに、剣舞がいざ始まると傑も悟も再び曜次の舞に魅せられた。
 曜次が踏み込む度に神楽殿が揺れた。
 刀を振るう度に空気が清浄に、澄み渡っていくように感じた。
 果たして神楽殿を下から眺めている人々は、曜次のこの剣舞に何を思っているのだろうと、雅楽を演ずる楽士達の一つ後ろで、着慣れない狩衣を着せられ、ぼうっと曜次を見ている傑はぼんやりと思っていた。
 あれは天野曜次だ。
 いつも部屋を間違えて勝手に人の部屋で寝ている。
 空っぽの小学校で楽しそうにはしゃいでいる。
 大きな花火に歓声を上げて、屋台を物珍しそうに見ている。
 あれは傑のよく知っている天野曜次のはずだった。だというのに、気づけば曜次の纏う清浄な空気に飲み込まれている。曜次の指先から髪の毛の先まで、全てが一つの、刀を振るうために作られたもので、それに飲み込まれた傑の頭はどこかぼうっとしていた。ああ、これが見惚れるということなのかと思うまでに随分と時間がかかったように思う。傑は曜次の剣舞に魅せられ魅入ったのだ。
 化粧と真白な衣服に身を包んだ曜次ははた目から見ても美しいと思わせるものがあった。それはありとあらゆるものを切り詰め、斬り捨てて刀というただ一つの物に身を打ち込んだ者が持つ、美しさだ。その美しさにいまや傑や悟だけでなくこの神社の境内にいる誰もが飲み込まれている。心を揺り動かされて、感動のあまりに頭がくらくらとしてくる。
 そんな観客の気持ちなど知ったことではないとばかりに曜次は踏み込み、刀を振り上げた。天野神社で行われる剣舞は最短でも三十分はかかる。本来なら複数の舞手が交互に行うはずなのだが、天野神社で行われる剣舞に限って言えばその全てを曜次が成していた。三十分に渡り動き続ける体力と、いくら舞っても力強さが失われない踏み込みに、魅入られて気づけば残り五分になろうとしていたときだった。
 ずうん、と大きな振動が起きる。山が震えているようだった。ぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあと山を追われるように烏やその他の鳥たちが飛び出して、暗闇に目をしばたたかせている。傑も悟もいち早くその振動と変化に気づき、膝を立てる。傍の楽士がすっと軽く手を挙げたが、その手を傑はそっと抑え危険が迫っていることを唇で伝えた。
 ずうん、ずうん、と繰り返し起こる振動は徐々に近づいてきており、それと同時に薄ら寒い空気が流れ込んできた。
 季節はまだ夏が終わったばかりで、寝苦しい夜もある。神楽殿を熱心に見ていた観客のうち、勘の鋭い幾名かはこの薄ら寒い気持ち悪さに気づいたようで、両手で体に触れていた。その様は寒さから身を守ろうと震えるようであった。
 これは、ただの寒気ではない。呪霊だ。しかも間違っていなければあのとき滝つぼで上空を飛び去った呪霊が近づいてきているのだ。
「傑」
 悟はそっと傑に耳打ちをする。楽士はもう何も言ってこなかった。楽士の握る楽器の手がかすかにふるえているのが傑には見えた。
「わかってる。万が一の時は君が曜次の方へいけ、私が盾になる」
「わかった」
 曜次の額に汗が滲んだのが二人がいるところからでも見えた。今までなんということもない表情をしていたというのに、曜次にも呪霊が近づいてきているのがわかっているのだ。だがそれでも剣舞を止めるわけにはいかないのである。一度始めたこの剣舞はそのすべてを舞い終わることで、呪いを祓うことができる。今、天野神社に集められた数多の呪具、呪物の呪いを祓うためには一瞬たりともこの舞を止めてはいけないのである。楽士たちもそれがわかっているから、手が震えようと足が立たなくなろうと演奏をやめないのである。つまりこの中で自由に動けるのは夏油傑と五条悟の二人だけ、ということだ。
 ミシッ、と神楽殿がきしんだ。その音は楽士にも伝わったようで、一瞬音が濁った。だがそれでもすぐに持ち直したのはさすが、天野神社に連なる者、といったところだろうか。この神社にいる以上、呪いや呪霊と切っても切り離せないものがあまりにも多い。その一つ一つに恐怖することがあろうと、立ち向かわなければならないのが呪術師という存在だ。舞手は曜次だが、この空間を作っているという意味では楽士も曜次と同じ役割を背負っている。音を止めてはならない。舞を止めてはならない。たとえ、屋根が落ちてこようとも。
 ミシミシという音はさらに近づいて聞こえてくる。神楽殿がきしむ。傑と悟の感覚が間違っていなければ、呪霊はすでにこの神楽殿の屋根の上にいるはずだ。
「悟」
「うん」
 傑がそう言った瞬間であった。
 頑丈に作られているはずの神楽殿の天井が落ちる。
 朱に塗られた美しい柱に亀裂が入り、そのまま屋根は崩落した。
曜次!」
 悟が叫ぶ、傑は外へ駆け出した一瞬の間に曜次の体を落ちてきた天井の一部が突き刺すのを見て冷汗がぶわりと吹き出した。その後のことを傑は知らない。神楽殿が完全に崩壊し、その外に傑は出たからだ。中のことは悟に任せた、なら最後まで任せようと傑は根源である呪霊を探す。
 観客席から悲鳴が聞こえる、神社の者達がすぐさま駆けつけて観客の避難誘導を始めたが、曜次や楽士は逃げること叶わずにそのまま崩落した神楽殿の下に巻き込まれてしまっている。曜次が屋根の下敷きになる直前、駆け出した悟が曜次の体に触れていたからおそらくはぎりぎり間に合っただろう。傑は神楽殿が崩壊するよりも一歩早く神楽殿から飛び出したので、無傷ですんだが、瓦礫の下に巻き込まれた人は多い。だが一番崩壊の度合いがひどいのは曜次が舞っていた場所であるから、楽士の怪我はそう大したこともないだろうと思いながら、傑は神楽殿の上に鎮座する呪霊を見上げた。
 大きな一つ目をぎょろりと動かしてそれは傑を見ていた。首にはいくつもの頭蓋骨を連ねて並べ、大きな唇からは憎悪を撒き散らしている。
 明らかに三級や二級の呪いではない。一級か、下手すれば特級に相当する呪霊だ。
 傑はごくりと生唾をのみこんだ。傑の現在の階級は二級である。傑が呪霊を取り込む簡単な目安として階級差によるものがある。階級差に換算して二級以上の開きがあれば、調伏をすることなく無条件で取り込める。今でいうなら四級の呪霊ならば無条件で取り込めるといった形だ。そして術師の階級による実力は呪霊の階級と同価値ではない。三級術師なら二級の呪霊に、二級術師なら一級の呪霊に近い力を持っている、つまり同等の階級の呪霊は問題なく祓うことができるというわけだ。
 その前提をもってして、傑は今目の前にいる呪霊が一級以上、つまり本来なら傑にはまだ早すぎる強さを持った呪霊であると認識した。
 吹き出した冷汗はまとまって背筋をつぅーと滑る。
曜次と一緒にいると本当に飽きるということがなくて助かるよ」
 傑はぼそりと呟いたがその一言は、観客の悲鳴と観客を誘導する神主たちの声に紛れて誰にも届かなかった。
 
 一方で瓦礫の下敷きになった二人は、悟の術によってかろうじて柱の下敷きにならずにすんでいた。とはいえ周囲は完全に崩壊した瓦礫ばかり、曜次は片足を柱に挟まれ逃げ出すこともできず、悟もここで術を解けば二人共重たい柱の下敷きになるとなれば、救援を待つ他にできることはなかった。悟の術なら弾き飛ばすこともできなくはない。だが、まだ術の行使が不安定で、外の状況がわからぬまま術式を最大開放してしまえば楽士たちはもちろん、観客を巻き込む可能性もあった。その可能性が悟の術式を不安定にさせる。
「んぐぐぐぐ……」
「……悪い……悟」
「そうしおらしく謝られると調子が狂うんだから、これ終わったらなんか奢れよ」
「そうか、でも巻き込んだのは俺だからな……」
曜次、お前」
 つん、と鼻をついたのは血の臭いだった。曜次の腹を貫通した木片は今もまだしっかりと曜次の体に食い込んでいた。そのせいで曜次は身じろぎすることすらできないでいる。
曜次!」
「思いっきり腹に刺さってるの、ちょっと、笑える」
 悟は伸ばせるだけ手を伸ばしたが、曜次を貫いている破片にはあと一歩手が届かない。いや引き抜かない方がいいのだろうかと悟は思考する。現状でこれだけ出血しているということは、動脈が傷ついている可能性がある。その状態で木片を引き抜いたら余計な出血が曜次の致命傷となりかねなかった。
「笑えるか! ああもうどうしよう、傑はこっちを気にしてる場合じゃないし、すぐ助けは来るのか!?」
「観客の誘導が終われば……俺が死ぬと当主がいなくなるからそれなりに」
 げほっと咳き込んだ曜次の口から血がこぼれ落ちる。
「それ、なりに」
「いい、いい! しゃべるな、今全部どうにかするから」
「大丈夫だよ悟、それより俺の術式、見れなくて残念、だね」
「は?」
 曜次は痛むだろう腹の傷に顔をしかめながら指を組む。
「火中に叩く玉鋼、魂を打て、魄を打て、禊ぎの血は我が誓約の下に」
「お前、それ」
「俺は領域展開は、できないけど、簡単な結界術ぐらいならなんとかなる。これはね、俺の刀の付喪神を顕現させる術だよ」
 俺の意識が持つ限りは、と言って曜次は大きく咳き込んだ。
「痛い」
「わかってる、わかってるよ、今俺がなんとかするからああ、どうしようこれ吹き飛ばしたら傑に当たるかもしれないし」
 曜次はそれきりとんと喋らなかった。目は開いていたし、呼吸もしていたから、悟はますます焦る。まだ間に合う。でもこれ以上遅くなったら間に合わないんじゃないか? そんな不安が募って、どうしたらいいのか、最善の手が思い浮かばなかった。
「悟」
「何!?」
「手つないでて」
「……わかったよ、わかったから頼むから死なないで」
「死なないよ、大丈夫。傑も死なないし悟も俺も死なないよ。大丈夫だから、手握ってて」
 誰かの熱を感じてると安心できるし、後一歩踏ん張れるから、そう曜次は言いながら震える手を悟の方へと差し出したのだった。
 悟は差し出された手をぎゅっと握って、まだ十分に加減ができない自分の呪術を呪った。もっと加減できれば、こんな屋根吹き飛ばしてやるのに、とぎゅっと唇を噛みしめる。
「大丈夫だよ悟、悟は十分、使いこなせて、る」
「しゃべるなよ、頼むからもうしゃべらないで、大丈夫だ俺がなんとかするきっとなんとかするから」
 叫ぶように嘆くように祈るように言う悟に曜次はほんの少し笑ってみせた。

 崩壊した神楽殿と突如現れた巨大な呪霊を前に傑も握った手から汗がこぼれ落ちるのを止めることができなかった。呪霊はどうやら何かを探しているらしいが、それが見つからないといった様子で手当たり次第に呪いをばらまいている。呪力をただばらまいているといってもいい。それはただの呪力のはずなのに圧縮され、どこかにぶつかる度に爆発する。その憎悪の深さに、傑は反撃の手段を得ることもできずにいた。観客たちはより恐ろしいだろう。何せ何も見えないのにあちらこちらで爆発が起きるのだ。それに恐怖を感じないわけがない。
 傑とて避けるだけならばどうにでもなる。だが曜次と悟の方は一体どうなっているのか。これ以上広範囲に攻撃をさせればいずれ神楽殿もさらに崩壊を重ねる可能性があった。そうなる前に止めなければいけないのだが、傑にはこの呪霊に勝つ方法がわからない。自分の呪術で勝てるのか? 領域に取り込むことはできるのか? はたまた手持ちの呪霊でこの呪いに勝てるものがあるのか? ぐるぐると思考はめぐり、その度にじわじわと時間が過ぎていく。早くなんとかしなければならない、と気持ちばかりが焦って、滑る。
 気づけば参拝客の誘導はほぼ終わったようで、狩衣姿の男性や巫女姿の女性が神楽殿を取り巻いているが、呪霊がそこにいる以上、助けに行くことができずに皆歯噛みして呪霊を見上げる他にできることがなかった。唯一、戦う術を持っているのは傑だけだというのに、そのあと一歩が踏み出せない。早くしなければいけないことはよくわかっているというのに。
 カンっと軽い音とともに刀が傑の目の前に突き刺さったのはまさにそんなときであった。
 見慣れた刀は、突き刺さった地面に伸びる影が動く。まるで影そのものが意思を持っているように蠢き、やがて一つの形をとった。初めは鷹のように羽を広げた影となり、続いて人の形をとる。そして地面から影は立ち上がり、かがり火の明かりによってその姿を現した。その姿は制服を着た天野曜次そっくりの誰かだった。ほんの少し赤みがかった黒い瞳も、烏の濡れ羽のような黒い髪も全てが曜次そっくりだ。だが、曜次ではない。
「やあ、はじめまして」
 そう笑った顔までも曜次そっくりであったから、傑は思わず「曜次……?」と口にしてしまったが、その男はそれを聞いてけらけらと笑った。
「残念、俺は曜次の姿をしているけれど、曜次じゃありません」
 それなら誰でしょう? とまるで傑をからかうように言う。曜次を真似た誰かは傑をあざ笑うように微笑みを浮かべて唇に人差し指を当てた。曜次はそんなふうに人を馬鹿にしたような口はきかない。なら誰だと思ったとき、傑には一人思い当たるものがあった。
 突如降ってきた刀。
 曜次の姿をとった呪霊と思しきもの。
 見慣れた刀の柄。
 曜次が常々口にする、刀の付喪神という言葉。
 そのすべてを合わせると、傑の頭の中に出てきた答えはただ一つだった。
「……影鷹丸?」
「大当たり、よくわかったね、ヒントもあげてないのに」
 そう言って影鷹丸はけらけらと笑うのだった。
 影鷹丸は曜次が常に持っている刀の一口だ。自分で刀を打つことができないという曜次天野の里から一口の刀を借り受けて、両面宿儺打倒のために育てているという。曜次の扱う、天野の里で打たれた刀には付喪神が宿るという話を聞いたのはついこの間のことだった。その呪霊が曜次の姿を取るというのは初めて見たけれども、なるほどよくよく見てみれば禍々しい気が暗い影のように漂っている。それは確かに呪霊だった。
「俺をわざわざ呼び出したってことは主になんらかの問題が発生したってことだ。主はそれなりにピンチってことだね、でもあんまりやる気ないな」
 曜次、いや影鷹丸はそんなことを言うと、自身それそのものであろう刀をぐるぐると手の中で回して、呪霊と向き合った。
 一瞬後には影鷹丸は呪霊の頭の上にいた。傑すらも目にすることがかなわず、二度瞬く間に曜次の姿をとった影鷹丸はいつの間にか呪霊の頭上に移動して、いつの間にか手足に細かく斬撃が入れていた。呪霊は思わぬ反撃に悲鳴を上げる。傷口からドロドロとへどろのような呪いがあふれ出して神楽殿の赤い屋根を黒く汚していった。呪いが触れたところからぐずぐずと木が腐っていく。それだけ強大な呪いということだろう。
「つまらない、やる気もない。なぁ、ええっと夏油傑だっけ」
 傑がそうだ、と言うよりも早く影鷹丸は言葉を続ける。
「そう夏油傑、取り込んでみなよ」
「は?」
「だから、これを取り込めって話。大丈夫、いけるさ、こいつは特級でも下の下だからね。それとも競争にする? 俺が切り殺すかそれともお前が取り込むか」
 影鷹丸はにっこり笑ってそんなことを言った。その笑みに曜次の姿が重なって、急がなければいけないことを思い出す。
 影鷹丸が何を思って「できる」と断言したのかはわからない。だが一級の呪霊である影鷹丸がそういうのであればそれはもしかしたら本当に可能なのかもしれない。
 確信も確証もなかった、しかし今傑がやらねばならない。
 傑は宙に手を浮かす。その手の中から影が生まれ、影の中から人の頭だけが一つが二つ、二つが三つに分裂して現れた。ぽーん、ぽーんと転がり、ぶつかる頭はぎょろりとカエルのように目玉が飛び出ている。傑が持つ二級の呪霊だ。さらに傑は手をかざす。すると今度は神楽殿の真上にどんと鎮座している呪霊の後ろに影が生まれた。その影は大きく伸びあがって、その中からどっと呪霊があふれ出した。傑が今までに集めた呪霊だ。
 あふれ出す水のように、影の中から出てきた呪霊は勢いでもって一つ目玉の呪霊を押し流す。先に影鷹丸によってダメージを入れられていたこともあり、一つ目玉はぐらりと傾いて神楽殿の上から転げ落ちた。そこを三つの頭が取り囲んで、簡易な結界を作り出し、一つ目玉を閉じ込めた。
 どん、どん、どんと一つ目玉の呪霊は結界から逃れるべく激しく地面を叩く。その度に激しく地鳴りがし、まるで地震のように傑の体もぐらぐらと揺れた。だがそんなものに気を取られている暇はない。傑はすっと手を上げて、真っ向から呪霊を捉える。
「______ッ_____ッ」
 一つ目玉の呪霊が耳障りな音を立てて鳴く。それは悲鳴にも似た何かで、傑は思わず耳を抑えたくなるのを必死で我慢して、集中した。
 傑の呪霊操術に必要なのは、相手を屈服、すなわち調伏すること。調伏に必要なのは心と身体の一致であり、心が安定していればしているほど調伏はたやすくなる。すなわち最も大切になるのは、「この呪霊を調伏することができる」という確信と自信なのである。
 だが今回の傑にはそんな余裕はなかった。故に呪言でもって縛るのだ。
 傑は破邪の法でもって九字を書く。
「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女、我毒を食らい毒を制す者、ここに下れ! 急急如律令!」
 かがり火がぴたりと止まった。
 空気の揺らぎがその場で突然止まってしまったかのようだった。
 暗い空の星も月も夜の闇にひっそりと息を止めているようだ。
 傑もまた息を止め、相手もまた息を止める。その中で唯一影鷹丸だけが、にやにやと楽しげに傑と呪霊を眺めてはどうなることかと笑っている。
 傑と呪霊は今まさに一騎打ちの最中にあり、少しでも集中を欠けば、呪霊に食われるだろう瀬戸際にいる。それは傑だけではなく呪霊の側もまた同じだ。呪言に縛られ、夜の闇がじわじわと呪霊を取り囲んでいく。かがり火の灯が遠くなり、傑の影と呪霊の影が繋がった。
 その瞬間、ぴたりと動きを止めていた空気がごうと流れる。流れは呪霊から傑に、まるで強力な力で引き込まれているかのように業風が吹き荒れ、かがり火が倒れ周囲に炎が広がった。だが勝負はついた。呪霊は体の端からぼろぼろと形が崩れ、傑の手のひらの中に収束していく。やがて風も炎も弱まると、全ての中心で傑が完全に取り込んだ黒い球体を握ってしゃがみこんでいた。
 特級を取り込むのは傑も初めてだ。凝縮した黒い球になったそれを改めて確認すると、ぶわりと嫌な汗が背中に伝う。
 ぱちぱちぱちと手を叩く音がする。振り向くとそちらでは曜次の形をとった付喪神・影鷹丸がにこにこしながら傑を見ている。
「見事、見事。まさか本当に取り込むとは。俺としては失敗したお前の代わりに切るつもりだったのに、正直な話こちらの方がよい結果だなぁ」
「……?」
 影鷹丸の物言いは遠まわしだ。一体何をと思った瞬間、刀が傑の目前で煌めいた。
「わからんか? あえて待っていたのは」
 影鷹丸の姿が消える、そして傑の真後ろに現れた。傑は地面に転がっていた棒きれを拾うが、当然そんなもの曜次の刀の前では紙切れも同然である。ひゅっという音が耳元をかすめると同時にピリッとした痛みが頬を走る。
「特級を取り込んだ呪術師もしくは特級に相当する呪霊を抱える人間を切った方が早く特級になれるからだ」
 真上からまっすぐ脳天を目指して振り下ろされた刀を傑は転がって避けた。髪を縛っていた糸が切れる。
「本来ならご法度であるが、幸いにして我が主は瓦礫の下。お前は特級に殺されたということにしてやろう」
「冗談を抜かすな」
「冗談ではないぞ幸いそこら中に呪霊が集まってきているからな、お前が死んだ程度」
 再び影鷹丸が踏み込む。
「誰も気にするまい!!」
 早かった。目前に煌めく銀色は、「死」そのものだった。避けきれず首を落とされると思った瞬間、パンという軽い音と共に突然影鷹丸の姿が消えた。勢いのまま背中から地面に叩きつけられ喘ぐ傑が見たのは、地面にずぶりと突き刺さった刀であった。
「!?」
 がらがらと崩壊の音がする。どうやら瓦礫の下から悟と曜次が出てきたようで、曜次がこちらに向けて指を指している。
「残念」
 そんな声が聞こえた気がした。傑は大きくため息をついてそのまま綺麗に澄み渡った空を仰ぎ眺めた。
「悪い大丈夫だったか!?」
「大丈夫じゃない、君、自分の付喪神ぐらいしっかり管理しておけ」
「すまん」
 その表情はいつものように軽くなかったので傑もため息で終えた。いつものように明るく笑ってくれた方がずっと、よかったというのに。つまるところはそれだけ切羽詰った状況であったということだ。
「ああっくそ、もう一回は無理だな」
 先ほどの特級呪霊に呼び寄せられて集まってきた呪霊が集合していく。弱い奴ほどよく群れるというが、これだけの数は面倒だ。曜次は足をやられているらしく、悟の肩を借りないと自力では立てない様子である。これでは刀を握れというのも無理なもので、傑は先ほど取り込んだ真っ黒な球体を手に取る。
 黒い球体は、よくよく見ると中で呪霊がぐるぐると渦を巻いて出口を探しているのが見える。何故傑が呪霊を取り込むときこのような形態になるのか、それは傑自身にも実はよくわからないことだった。飲み込むというイメージから球体になったのか、それとも傑の体に刻み込まれた術式にそうなるよう記述でもされているのか。わからない、だがこれを飲み込めば全てが終わる。
 傑は折角だとばかりにそれをごくりと飲みこんだ。ひどい味が下の上で転がる。手のひら大の球体であるが、口に含むとすっと小さくなって喉元を通るときには小指の先ぐらいの大きさになってしまうので、飲み込むのにそう苦労はいらない。
 使ってみるか、と傑が手をかざす。
 先ほどの呪霊が再び姿を現し、体中についた口で鳴いた。
「食え」
 傑がそう命じると同時に群れていた呪霊が全て食われていく。神主たちが呆然と夜空のを眺めていた。彼らは視える人だ、ゆえに傑が呪霊を出したのも、その呪霊が集まってきた雑魚を食い散らかす様もすべて見えているのである。しばらくの間そうして皆が呪霊に注目していたが、すぐに神主たちは自分の仕事を見つけて三々五々に散っていった。
「ははあ呪霊操術とは付喪神を使役するよりも便利そうだ、なぁ今度教えてくれよ」
「無茶言わないでくれ、君には無理だろう」
「そうかな、俺と傑の術式はかなり似てるから上手くできそうだけどなぁ」
 呪霊がいなくなった空はすっきりと晴れている。月と星がきらきらと輝いていた。



20190208
20200421 加筆修正