冷たい水から上がった三人は、髪や体が濡れているのも構わず乾いた服に袖を通すと、山を急いで降りたのだった。
先程見た巨大な呪霊が気になる。あれだけの力を持っている呪霊なら近くにいるだけでも一般人にはひどい霊障が起きるだろう。もしや剣舞のために集められた様々な呪の中にあれがいるのではないか、だとすれば剣舞を踊る
曜次も危ない。可能であれば先に祓った方がよいと判断して慌てて山を降りたわけだが、山を離れるとあの巨大な呪霊の残穢はぷっつりと途切れてしまいもうどこにも存在しなかった。
「嘘だろ」
「あれだけ大きな存在だ、意識しない限り残穢が残らないはずがない」
「じゃあ逆にいえば、意識して残穢を残さないようにできるレベルの呪霊ってこと?」
悟の問いに傑は眉を寄せて呻いた。
「
曜次、どうするんだ今日の剣舞」
「どうもこうもやめるわけにはいかないんだ。他にも呪いがかかった物がたくさん集まってる。それらを放置するわけにはいかないし、放置すればここの神社の人たちに影響が及ぶよ、だから今日の剣舞はこのまま実施する」
「
曜次!」
「わかってるよ傑。あれがもしそれだけ知性を持っている呪霊だとしたら、一番に狙われるのは俺だ。だから今回の剣舞には控えに傑と悟も入ってもらう」
「控え?」
「そう、控え」
天野神社の神楽殿には、剣舞を行うための空間の他に、演奏者の並ぶ場所も存在する。メインは剣舞であるが、その剣舞は演奏に合わせて踊るのだ。演奏者も全員呪術師で、彼らの演奏にも呪いを祓う効果がある。通常なら
天野家の呪術師しか入れないが、今回は例外にすると
曜次は言った。
「でも、そんなことできるの?」
「できるよ、だって俺が当主だもん。神主じゃないけど、ここの神社は里と深いつながりがあるから、俺が言えば大丈夫」
「へぇ、
曜次って本当に当主だったんだねぇ」
「なんだよそれ」
「普段の行いからだととても当主には見えないってことだよ」
そこから剣舞までは
曜次が言うとおりトントン拍子で話は進んでいった。傑と悟が演奏者たちの間に入ることは
曜次の指示であっさりと許可が降り、二人は今、剣舞の最後の合わせを見ている。神社の本殿で行われる最後の合わせは、いわゆる最後の稽古のようなものだが、実際は表に出せないような呪力の強い物を先に祓う意味合いがある。その証拠に
曜次の剣舞は本番さながらの迫力であった。
傑も悟も剣舞を見るのは初めてである。神楽殿で神楽舞を見たことは、多少ならばあるが、実際に呪霊を祓うだけの力のある神楽は見たことがない。だから余計に、
曜次の一挙手一投足に見入るのである。
だん、と強く踏み込めば神社が揺れているのではないかと錯覚するほど、刀を振り抜く手に迷いはなく、美しい銀色の刃紋がゆらゆらと揺れるろうそくの明かりにきらめいて美しく輝いていた。狩衣のような衣装を着用し、化粧を施された
曜次は美しい。頭の高いところで結ばれた髪の毛の先まで、
曜次の体すべてが剣舞のために存在するように迷うことなく動くのだ。刀を振る度に刀に呪いが集まっていく。集まった呪いはさらなるひと降りで祓われ、剣舞が進むごとに神社本殿を圧迫していたような大きな気配は消えていった。
だん、だ、だん、
曜次の話によれば足の踏み込みも踊りの一つで、タイミングや踏み込む形が決まっているという。首を振るタイミングも、刀を振り下ろすタイミングも全て演奏者と合わせられており、その全てが降霊術であり同時に呪霊を祓う
天野の術式なのだ。
それらをすべて迷いなくこなすまでに
曜次はどれほどの練習を詰んだのだろうかと傑は思う。前に小学校に行ったとき、
曜次は小学校にも中学校にも行ったことがないという。その間を全て刀を振ることに注ぎ込んだのだ。それ故に
曜次は刀に絶対の自信を持っている。彼が常々言う「刀をもたせたら強いよ」というのは決してはったりでも嘘でもない。彼が積んできた稽古の全てがあるからこそ、刀を持ったときに
曜次は一切迷わないのだ。
そのあり方を傑は何よりも美しいと思った。ただ一つのことに打ち込み続け、それを完全なものとして昇華する、
曜次はまさに刀の権化だ。普段の
曜次からは考えられないほど、真剣な表情は体の全ての動作と合わさって一つの流れを作っている。その流れの中心にいるのが
曜次なのだ。美しいという言葉以上のものを、傑は持ち合わせていなかったから、美しいと表現したが実際はそれ以上の感情が溢れて止まらなかった。悟もまた間近で見る
曜次の剣舞に魅せられているようで、思わず声を上げそうになるのを必死で我慢している風である。
演奏とともに刀を鞘に収めた
曜次は、静かに礼をする。そしてふうと一息ため息をつくと、いつものようににこっと笑って傑と悟の方に駆け寄って「おーわり!」と、正座をしている二人に飛びついたのだった。
「おわっ」
先程までの剣舞とは打って変わった
曜次は、傑と悟が知っている
天野曜次という男だった。化粧を施されているためどこか神々しさがあるが、正座をしている人間に思い切り飛びつく人間はそうそういない。そういうところを見ると
曜次が戻ってきたのだと、傑はほんの少しだけ安心した。剣舞を端から見ている間、本当は
曜次もまたこのまま消えてしまうのではないかと思ったのだ。だから思い切り飛びつかれて頭をしたたかに打ったことは、一回は許してやろうと思った、その後勢いが止まらずに頭突きを食らわしてきたことは許さないが。
すぱんと
曜次の頭を叩いて、石頭に激突したせいでこぼれた鼻血を手で抑える。
「ごめん、勢いが」
「知ってるよ、悟が避けたから私が当たるだろうこともわかってた」
「ごめん」
二度目に謝ったのは悟だ。少し笑っていたから、やっぱり許してやるのはやめようと思いながら、起き上がると、
曜次は次の準備があるということで引きずられて本殿から出ていくところだった。
「すごかったな、
曜次の剣舞」
「普段の
曜次からはとても考えられない」
「同感」
「ところで」
「おい」
ところで、服ってこのままでいいのかなと悟が言おうとしたところだった。
曜次がじっちゃんと呼ぶ神主が悟と傑に近づいてくると仏頂面で近づいてくると、着いてくるように言う。なんでも控えに入るのは問題ないが、そのためにはきちんとした格好と振る舞いをしてもらわなければならないということだった。
天野神社にとっても重要な剣舞、人も多く来るために、粗相は控えろということだろう。
二人が神主の後についていくと小さな部屋に案内され、そこからは何がなんだか分からないうちに着物を着せられ、神楽殿での作法を教えられ、立ち位置からどのように振舞うかまできっちりと稽古をさせられた。幸い傑も悟も飲み込みが早いほうであったから、そう苦労はしなかったものの、普段に比べたら堅苦しい決まりごとの多さに、稽古と合わせが終わった頃には二人ともすっかりと疲れきってしまっていた。
神主は色々と仕事も多いのだろう、二人を案内してからはほとんど顔を見せなかったが、夜の剣舞までしばし休憩をしていると、ふいに神主が現れて二人の前にどんと腰を下ろしたのだった。
還暦を越えているだろう男であった。髪の毛はほとんど白髪で、顔や手の皺には苦労がにじむ。呪術師でもなんでもないただの老人のはずなのに、なんとなく目の前に座られるとこちらも背を正さねばという気迫が滲むような雰囲気があった。
「
曜次は、学校でうまくやってるのか」
初めに口を開いたのは神主の方で、彼は仏頂面でそんなことを言うとふんと鼻を鳴らして二人の返事を待っていた。
傑と悟は想定していなかった言葉に思わず顔を見合わせてから、「うまくやっている、というか毎回色々と彼に巻き込まれてます」と傑が答えた。その答えでよかったのか二人にはわからないが、なんとなく神主のぴりぴりと張詰めた雰囲気が和らいだ気がして、傑と悟は知らず知らずのうちに止めていた息を吸い込む。
神主はそれからしばらく沈黙のままその場にいたが、誰かに呼ばれて部屋を出た。どっ、と疲れが出た気がしてそのまま畳の上に寝転ぶと今度は入れ替わるように老婆が茶と菓子をもって入ってくる。
「ごめんなさいね、あの人ちょっと口数が足りないから」
老婆は明子という名前であると名乗ってから、二人に茶と菓子を差し出して「
曜次ぼっちゃんのご友人でしょう? なのにおもてなしもしないで全く困った人ね」と優しく笑うのだった。
「
曜次ぼっちゃんに剣舞を教えたのはあの人なのよ。他の剣技は別の師がいるんだけど、小学校にも中学校にも行かせずにずっとこの里で稽古をつけていたから、
曜次ぼっちゃんが本当に学校で友人をつくって、普通に生活できているのかそれが心配でしょうがないの、ええ里のものはみんなそうよ。十五の少年が里長になることも、呪いという異形を祓うために命をかけることも、里では当然のことだけど異常だってみんなわかってるの」
明子はそういいながらお盆を下げる。
「だからあなたたちのような友人を連れてきたの、あの人本当はすごく喜んでいるのよ。仏頂面だから分かりにくいけれど、今日は来てくれてありがとう。これからもよろしくね」
それから明子は時間までここで自由にしててちょうだいと言い残すと部屋を出て行った。
まさか面と向かって、
曜次と友人になったことを感謝されるとは思ってもおらず、傑も悟もなんとなく気まずいというか照れくさいというか、そんな不思議な気持ちに包まれながら、頬をかく。
「大事にされてるって感じ」
悟が言った。
「本当にいい家柄のぼっちゃんなんだなって思った」
「悟もそうだろう」
「俺の家はまぁ、確かにそうだけど、こんな雰囲気じゃないよ。あんまり好きじゃないんだ俺は自分の家」
「ふぅんそんなものか」
「傑は?」
悟は明子が持ってきた茶菓子を掴むとあまりお行儀がよいとはいえない形で口に放り込んだ。
「私は普通の家の出だよ。物心ついた頃から変なものが視えた、襲われることもあったし、友人も親も私のことを気味悪がった。中学校の頃に偶然夜蛾先生と会って、それでようやっと自分が見えているものの存在を知ったぐらいだし」
傑は淡々とそんなことを口にする。
「遡れば私の家も呪術師の家系だったようだけど、私の家族はその末端も末端、すっかり呪術の家系からは離れていたし、親戚付き合いも悪かったから、夜蛾先生と出会って初めて宗家に当たる親戚と顔を合わせたんだ。それでも」
傑はそこで言葉を区切った。それから小さく呟いた。
「みんな私の呪術を気味悪がったよ」
傑の言葉にはすっかりと諦めたようなそんな雰囲気が滲んでいる。幼い頃は普通ならば視えないものが視えるせいで嫌われて、呪術師になってからも気味が悪い呪術だと言われてきた傑は自分自身がまっすぐな性根であるとは思っていなかった。だからこそ余計に
天野曜次と言う存在は眩しく輝いている。親から愛されていた、美しい呪術であった、そんなことだけではない。彼は傑の呪術を見ても顔色一つ変えなかった。それが、傑自身自覚していない、彼が心の奥底から願っていた態度だったのだ。それが異常なのではなく、それが普通のことのように受け入れてもらえる。正直
曜次と小学校の任務に行かなければ今だってこんなところに来ていなかったのかもしれない。
夏油傑にとっても五条悟にとっても、
天野曜次という人物は眩しいぐらいにまっすぐな少年だった。
「まぁ、
曜次となら呪術師を続けてもいいかなと思うよ」
傑がポツリと呟いた。
悟はごろんと畳に横になって大きなあくびをする。
「君は失礼だな、人が話をしている時に」
「聞いてるよ、全部ね。俺も
曜次となら何があっても平気だと思うよ」
それにしても眠いんだ、さっきまで散々堅苦しいことをさせられたからと悟は言った。
悟の言うとおり傑もちょっと眠かった。剣舞の時間までまだ十分な時間があったから、少しだけ寝ようと横になって、目を閉じるとあっという間に眠り込んでしまった。はっとして目を覚ますと目の前に
曜次が居ていつものようににかっと笑う。
「寝顔撮っちゃった」
携帯をぶんぶん振りながら笑う
曜次はいつものように楽しそうだ。
にぎやかな祭りの音が外から聞こえてくる。
曜次が楽しそうだったから、今日ばっかりは許してやろうと思ったのだが、
曜次がその写真を速攻で硝子に送ったと聞いて、傑と悟が
曜次を思い切り締め上げたのは言うまでもない。
祭りが近づいている。
2019.01.27
2020.04.09 加筆修正