日差しがまぶしく、木々は緑に輝き、セミが夏を謳歌している。夏油傑はそんな夏日に、しばらく続いた任務でため込んでしまった洗濯物をまとめて片付けるために、洗濯かごに山盛りになった洗濯物を抱えて寮の共用洗濯室へ向かった。
東京都立呪術高等専門学校は完全寮制だ。任務に即時に対応できるようにすることと同時にまだ未熟な術師を守るためというのが建前だが、実際は使える術師をしっかりと抱え込んでおきたいといったところだろう。そのために東京のこんな山奥に建物を建ててバカバカしい話だ、と傑は少し思う。
男子寮は二階、女子寮は三階にあり、一階は共用のスペースが整備されている。食堂や洗濯室もそのうちの一つだ。
さして重くはないがかさばる洗濯物を抱えて階段を下りるのは面倒だったが、今日、これから起きる面倒ごとに比べたら些事だ。夏油傑は一階にたどり着いて足元にまるで川のように水が流れているのを見て思わず「げっ」と声を上げた。
廊下は完全に川になっていた。とめどなくあふれる水がざあざあと流れ、夏の暑苦しい気温に耳だけ涼やかな気分になってくる。川は支流を得ていくつも分岐し、そして寮の外にまで達するとそこに水たまりを作っていた。人が多く行き来する分、寮の入り口はすり減って少しへこんでいるせいだろう。そういえばこの間の雨の日も寮の前だけ水たまりができていて寮に入るのに随分苦心したことを傑は思い出した。
支流の間をくぐりぬけるように、傑はぴょん、ぴょんと跳ねながら洗濯室へ向かう。そして洗濯室の前の水と水の隙間にしゃがみ込んで膝の間に頭を突っ込んでぴくりともしない男に、傑はため息を吐いた。
「で」
「……はい」
「今日は何をしでかしたんだ」
「洗濯しようと思って、それで」
「それで?」
「爆発しました」
爆発、その言葉を聞いて傑は頭がくらりとする。洗濯室には洗濯機と乾燥機とそれから洗面台しかない。だというのに一体なにをどうしたら『爆発』という言葉が出てくるようなことが起きるのだろうか。信じがたい出来事を前にするとそれが現実ではないと思い込む、だが傑はなんとか立ち上がって
曜次の言葉を受け入れた。
「爆発っていうのは具体的には?」
「わかんない……」
「仕方ないな、私も洗濯したいし中に入って、まずはこの水を止めないと」
「蛇口のひねるところが、とれちゃって」
これ、と渡されたのはカランだった。傑は再びめまいがしたが、ぐっとこらえて
曜次の襟首をひっつかみ、洗濯室の中に足を踏み入れる。
洗濯室の中はさらにひどい状態だった。二台ある洗濯機からはとめどなく泡があふれ出て、その隣の水道はじゃあじゃあと噴水がごとく水を吹き出している。乾燥機は沈黙を守り、幸いにして何もないようだが、ここまで来たら乾燥機に問題が一つや二つあっても変わらないだろう。完全に湖と化した洗濯室の中で、傑は部屋履きにしているスリッパを乾燥機の上に置いて、靴下を脱いで、ズボンのすそをまくると湖のど真ん中に立った。傑自身の洗濯物も乾燥機の上に避難させている。
「君は本当に刀以外のことは不器用……いやこれは不器用を通り越しているな。君、洗濯機の中にありったけの洗剤をぶち込んだんだろう」
「なんでわかるの?」
「君がしでかしそうなことはだいぶ予想がつくようになっただけの話だよ、それで、その後その泡を流すために蛇口をひねったと」
「うん、はい」
「元々はホースが取り付けられていたけど、いざ水を出したら勢いがありすぎてホースが外れて水が大噴射、そして蛇口をひねりすぎたせいでカランが取れて今私の手の中にある」
「すげぇ傑全部わかってる」
曜次はびしょびしょになった靴下とズボンのままぴょんぴょんと飛び跳ねた。そのせいで水が飛んだが、これからここの片づけをしてそして自分の洗濯物を片付けないといけないのだ。それらのことを考えるとだいぶ頭が痛くなる案件だったが、教師に見つかる前に片付けてしまおうというのは傑も
曜次も同意するところであった。
傑は
曜次から預かったカランを水道に戻すべく、猛烈な勢いで水を噴き上げている蛇口をぐいとひねって下を向かせる。洗面台の底の栓を抜けば、これでひとまずこれ以上の洪水は起きないはずだ。それから落ち着いてカランをスピンドルに乗せて慎重にひねる。こういうものは焦るとなかなかうまくいかない。すでに水が排出しきれなくなってあふれつつあるが、傑はあくまで落ち着いてカランをスピンドルに取り付けなおすと、ぎゅっとひねって水を止めた。
ざぁあああと清涼な水音を響かせていた洗面台からようやっと水があふれなくなり、傑はため息を吐く。
曜次には今、掃除用の道具を集めてくるように頼んでいる最中だ。それも一つ一つ丁寧にどういう形状のものが必要なのか教えたのだ、さすがに間違いはないだろうと思うが、と思ったところで
曜次が廊下の水を跳ね飛ばしながら洗濯室に入ってくる。
「傑! これでいい?」
「うん、まぁ上出来かな」
「あっ水が止まってる」
「私が止めたんだよ」
曜次の言葉を丁寧に訂正して、傑は泡を吹き出す洗濯機を見た。
泡を吹き出す洗濯機は、そろそろ吐き出す泡もなくなったのか、清浄に稼働している。雑巾を使って洗濯機をきれいに拭いてしまえばそれ以上は特に問題はなさそうだ。この騒動で洗濯機が壊れてしまうのが一番の懸念だったが、幸いそんな事態だけは防げたらしい。もう片方の洗濯機は特に何も入っていなかったので、傑は自分の洗濯物を乾燥機の上から取って、開いている洗濯機の中にぶち込んだ。
「
曜次」
「ん?」
「いいかい、洗濯機の使い方はまずスタートボタンを押す」
「知ってる」
「そうすると洗濯機が回り始める」
「知ってる」
「それでここ、ほら洗剤の量が出てくるんだ。それに合わせて洗剤を入れるんだよ」
「しって、ない」
「だろうね」
傑は備え付けの、まだ未開封の洗剤に手を付けると、洗濯機の表示通りに洗剤を入れた。
曜次はそれを見ながら「なるほど綺麗になるかと思って全部ぶち込んだのがまずかったのか、などとほざいているが傑はそれに関しては無視を決め込むことにした。
そうして洗濯機二台は無時稼働し、まずは一段落だ。次はこの洪水のようになった床を掃除しなければならない。
今度は水切りワイパーの出番だ。モップで拭いていたらとてもじゃないが一日で作業が終わらないので、まずは洗濯室にあふれた水をすべて外にかきだしてしまわないといけない。
傑と
曜次は一人一本、水切りワイパーを手に持って、部屋の一番奥から水をかきだし始めた。水場であるから床にも多少の排水施設はある。だがその機能を超える水があふれたので、床の排水施設は完全に機能を停止している。となれば水はすべて廊下にかきだし、廊下から今度は外へかきだすべきだろう。
傑の指示に従って
曜次は慣れない手つきでワイパーを動かす。
「わっわっ水があふれる」
「ゆっくり端っこから、あんまり速く動かすとうまく水がかけないからゆっくりね」
「わかった」
曜次の表情はいたく真剣だった。
曜次とて馬鹿ではないのだ。ただ今までの生活で一人暮らしをするのに十分な知識がなかっただけのことで、教えればできる。水切りワイパーも動かし方のコツを掴めばすぐに慣れて、きれいに水をかきだせるようになった。そうして三十分余りだろうか。狭くはないが二人できれいにするには広すぎる部屋の水を全部廊下にかきだして、もう一段落ついた。
「まだ水が残っているけどこれはモップで掃除するから。さっきの要領で廊下から今度は外に水を吐き出すよ」
「わかった」
曜次はワイパーを使うのが楽しいのか鼻歌でも歌いだしそうな勢いだ。びしょびしょの靴下を気にすることもなく廊下に出て、外に通じるドアを開けるとがんがん水をかきだしていく。この調子なら
曜次一人でも大丈夫だろうと判断した傑は、今度はモップを持ってきて、残った水分を拭き取りながら、まとめて洗濯室の隅々まで掃除をした。
呪術高専は男女比はその年によって変わる。傑たちの代は、女子が一名、男子が三名。その上は女子はいなかった。呪術は男性に偏りやすいのか、と言われたらNOだ。呪術師の全体でみれば男女比はおよそ1:1に収まる。傑と上の代が女性が少ないというだけの話だ。そのせいか、長い髪はほとんど落ちていなかったため掃除が楽だ。硝子はあれでいて几帳面なので、自分の髪の毛の処理はきちんと自分でしているのだろう。傑も見習わなくては、と思いながらモップで一通り床を吹き終えたころ、外から「終わったー!」という
曜次の声がした。
「今行くよ!」
水をかきだしただけではまだ不十分だ。
「
曜次、次はモップだ、ほらこれを持って廊下の隅から隅まで水を拭き取るんだ」
「あいさー」
曜次は傑からモップを受け取ってからしばらくモップを眺める。
「これどうやって使うの?」
「雑巾に長い柄がついていると思えよ。水をたっぷり吸ったら、これで、こうして」
モップの水切りの仕方を傑は実演する。
曜次はそれが面白いのか、はたまた初めて見る者に対する興味なのか、目をきらきらと輝かせながらその様を見つめていた。
人がいない廊下はしんと静まり返っている。ところどころにできた水たまり、あけ放った戸口から入ってきたセミが水の中にダイブして、ジジッと翅を震わせた。それに合わせて夏特有のむわっとした空気が戸口から吹き込んできて、傑はそこでようやく自分のシャツが汗でべっとりと肌に張り付いていることに気づく。
曜次も同じだ。
「さっさと終わらせてアイスでも食べよう。君のおごりだからな」
「うん」
曜次はモップを使うのが楽しいようだった。びしょ濡れの靴下はいい加減脱いで、これまた裾がびしょ濡れのズボンは裾を上げて、
曜次は廊下の端から端までモップを持って駆け回る。そして時々、傑がやったように水切りをして、また走り回った。
結局二時間余りの間、掃除をしていただろうか。その頃には
曜次と傑の洗濯物も洗い終えていたが、
曜次の洋服は泡が落としきれておらずもう一度すすぐことになった。そうしてすすぎ終わった
曜次の洋服と傑の洋服をそれぞれ別の乾燥機に放り込んでスイッチをオンにすると、グワングワングワンと乾燥機が回り始める。水切りワイパーとモップとすっかりきれいになった選択室で、傑と
曜次はぼんやりと洗濯物が乾燥機の中でぐるぐると回るのを眺めている。
「一人暮らしって難しいんだなぁ」
「慣れればどうということはないよ。ただ君は覚えることが人より多いかもしれないけどね。その調子だと料理もやったことない口だろう」
「料理はいつも作ってくれる人がいたからなぁ」
「お坊ちゃまめ」
「傑の家は普通の家?」
「普通をなんと定義するか、は問題だろうけど、私は一般人の家庭出身だよ。両親とも呪術師ではないね」
「ふぅん、だから色々知っているの?」
「まぁそういうことになるかな。君が刀の研鑽に使った時間で、私は日常生活を送っていたから」
「そうなのか」
「
曜次、君、今度は初めてやることは私の声をかけろよ、絶対大惨事になるんだから、それの後片付けをするぐらいなら、初めから巻き込まれた方が幾分ましだね」
「わかった」
曜次はびしょびしょになったズボンの裾を捻る。ぼたぼたと水がこぼれた。さっき拭いたばかりなのに、と傑に文句を言われたが、
曜次は気にしなかった。
「傑、それよりアイス食べに行こう。俺も食べたくなってきた」
「はいはい、その前に着替えをしてからね」
ミーンミーンとセミの声がする。ついこの間まで梅雨で鬱々とした空気が漂っていたのに、いつの間にか夏の蒸し暑くて同時に寂寥感のある空気が教室を席巻していた。どうして夏はこんなにも生き物が活気にあふれているというのに死を連想させるのだろうか。アイスを買いに出た
曜次と傑の足元でセミが一匹死んでいる。彼らの死をまじかに見るせいだろうか。傑はしばらくの間セミの死骸を持って考えていたが、
曜次の呼び声にどうでもよくなってセミの死骸をぽいと捨てた。
「
曜次! 私が運転するからな!」
夏はまだこれからだ。
2020.04.18