ヨゴトノリトのパラドクス

トンネルの怪

天野曜次という男が呪術高専の寮にやってきて夏油傑と五条悟の生活は大きく変わった。
 今まで学校に行ったことがないという曜次は、いつの間にか呪術高専の敷地の地図を持ってきて、いつも傑か悟どちらかの部屋に上がりむと地図を広げてああでもないこうでもないと勝手に色々と話をしては出て行く。最初に曜次のペースに呑まれて、人形のような所作をやめたのは五条悟の方だった。入学した当初は、背筋をぴんと伸ばして座っているとその薄い色素の容姿もあいまってまるで人形のようだった。だけれども実は割と猫背気味だったり、表情が豊かであることを知ったのは、曜次が寮に入って二週間ほどたった日のことだった。教室で腹を抱えて笑っているのを見たとき、傑もそして夜蛾先生もさすがに驚いたらしい。何が面白いのかよくわからないが曜次にいたっては床の上で転がって笑っていた。どうやら彼は何事にもよく笑うらしい、ということに気づいたのはすぐのことだ。
 そして悟の次に曜次のペースに呑み込まれたのは傑である。といっても傑は悟や曜次ほどころころと表情が変わるわけではない。しかし曜次が傑の自室に仕掛けた、小学生のようないたずらにひっかかったときはさすがに笑った。今までそんないたずらを仕掛けてくるやつなんていなかったから、馬鹿みたいに引っかかったことが、そして曜次がそれを楽しそうに見ていることが、腹立たしいを通り越して笑えてしまったのである。
 そうして曜次は傑と悟の間にあった溝を簡単に飛び越えて埋めてしまい、いつの間にか二人を繋いでいた。素人が結んだロープのように、紐の長さも太さもばらばらのそれを結んだ結び目はひどく歪だったが、それでもいともたやすく結んだのは間違いなく天野曜次だ。彼は子供のように毎日楽しそうに笑っていた。
 三人が友人と呼べるような仲になるまでに必要だったのはほんのわずかな日数だった。

 梅雨が開け、本格的に呪術師が忙しい時期というものが始まろうとしていた。
 基本的に呪いというものは人の心や感情から生まれるものであるから、発生しやすい時期、というが決っている。様々な要因が重なっているため、一概には言えない部分も多いが、日本ならば初夏に呪いが発生しやすい。冬季の憂鬱な気分、季節の変化による自律神経の乱れ、三月四月の大きな環境変化、そして五月病。こういったものが重なって梅雨の明けからどばっとホースの先っちょが栓で閉じられていたかのように、一気に呪いと言う形となって噴出すのである。時には年中忙しいということもある。現代日本は比較的食糧供給や生活が比較的安定しているが、自然災害が多い年は人のストレスから呪いが発生しやすいのだ。
 そんな様々な理由から、呪術高専は六月の終わりからはほとんど授業がなく、再び始まるのは十一月ごろだ。長い夏休み、と言うわけにはいかないのが残念であるが、逆にそれまでにぎっちり勉強が詰め込まれているので高専に通う呪術師と言うものは忙しい。
 幸い傑も悟も勉強を苦手としているわけではなかった。が、曜次はどうやら座学と言うものが非常に苦手らしい。入学して一ヶ月ですでに数学についていけず、赤点すれすれでなんとか試験を潜り抜けた曜次が何度傑にノートを見せてもらったことか。
 そんな忙しい学生生活の合間にもちょこちょこ任務が入るものだから、いくら元気な男子高校生でもさすがにそろそろ体力が限界に近かった。
 試験が終わり、任務が本格的になるまでのわずかな時間、三人が丸一日ベッドの上で過ごすことになったのは言うまでもないだろう。そんなささやかな休日も終わるのはあっという間で、呪術師としての本格的任務は今まさに入ろうとしていた。
 七月の頭、ちょうど曜次が高専に転校してきて一ヶ月ほど経った頃のことであった。普段ならばらばらに任務が下されるのだが、今回は初めて三人で任務に行って来いという指令が下ったのである。
 五条悟と夏油傑はこの時点で三級呪術師、単純に経歴がない故の等級でありすでに二級に匹敵する呪術師であることは担任の夜蛾正道がよく知っていたが、残念ながら夜蛾の一存では等級を変えることはできない。しかしながら優秀な呪術師といえどまだ十五、十六の子供が危険な任務に赴くのは夜蛾の本意ではないため何も言うことはなかった。呪術師としてやっていくならばいずれ出会うべきものに出会うだろう。なにもそれを早めて経験の浅いうちに無理をする必要はないというのが夜蛾の考えであった。小学生にいきなり一足す一の証明を教えないように、教えるべきタイミングというものが物事には存在する。それを上手く調整するのが教師の役目というわけだ。
 だが呪術師ともなると、数学を初めとしたほかの学問のようにいくわけではない。常に不測の事態と言うものは存在し、それに巻き込まれたとき呪術師としての真価が問われることになるのだろう。
 任務は呪術界上層部から下部の呪術師へと下ろされる。呪術高専の場合は、生徒にとって適切な範囲の任務か、教師陣で色々と調整を加えたあと、実際に任務が下されるのが常であるが、時折、ふって沸いたように任務が下されることがある。呪術界上層部は決してクリーンな組織ではなかった。夜蛾正道もそれをわかっていたから、生徒に与える任務には十分に気を配っていた。しかしその全てを一人で行うことは当然不可能だ。
 傑と悟が三級であるのに対し、曜次はすでに二級呪術師として高専に登録されていた。天野家は元々呪術師の家系であり刀鍛冶の一族なのだ。天野の里という刀鍛冶の里を持っており、天野曜次天野の里の当主となる。すでに様々な任務を里から言い渡されており、学校に通う代わりにそうして呪いを祓ってきた。それゆえに二級なのだ。
 二級になると単独での任務が許される。何故今回に限って傑と悟も同伴することになったのか。二人は少々不思議に思いつつも特に何も言うことはなかった。何しろ普段から堅気に見えない夜蛾正道の口元がこれでもかというぐらいへの字に折れ曲がっていたからである。何か、不満なことでもあったのだろうか。
「サポートといってもだ、おそらく今回は曜次の見学って形になるだろう」
曜次って、強いの?」
 悟が聞くと曜次はにっこり笑って「刀持ったら強いよ」と言った。等級がそのまま身体的強度に値するかは別なのだが、少なくとも今までの体育と言う名のついた体術訓練での曜次の体捌きは決して悪いものではなかった。刀を武器にすることは悟も傑もしっていたが、曜次は刀を握ると本当に動きが変わる。徒手空拳は悟と傑の得意とするところだが、何も獲物を持たないなら悟と傑の方が、刀を持たせたら二人がかりでも曜次の方が、強い。ただの木刀でもパイプでも、木の枝でもとにかく刀の長さのものを持たせると強い、呪霊相手でも見劣りはしないだろうことは簡単に予想がついた。
 いつものようににこっと笑った曜次の言葉に対し、ふぅんと曖昧に返事をする悟。
 教室の窓はもう締め切って、部屋にはクーラーが効いている。まだ七月の頭だというのに照りつける太陽の日差しは厳しく、今年は暑くなりそうだった。悟は教室にいてもサングラスを手放すことが出来ないほどに眩い光が照っている。
「そういえば私も悟も曜次の呪術はまだ見たことがない」
「そうだろう。ま、呪術は人の数だけあるからな、それを見学して来いってことだ」
 それに、と夜蛾は何かを言いかけたが結局それに関しては何も言わなかった。そのまま朝のホームルームは終わった。今回は任地が少し遠いらしく、準備が出来次第すぐに車で向かうということなので、三人はいつも通り適当に荷物をバッグに詰め込んで、高専の正門に出ると、すでに車が一台止まっている。真昼間にあってもなお黒い。窓に遮光が入っているのは悟としてはありがたいが、曜次は窓から外を眺めるのが好きらしく、大抵いつもこの車に文句を言っていた。まだ昼間だというのに、真っ黒な車は夜の闇に溶けて消えそうだった。
 運転席には影の薄い男が座っており、後部座席に乗り込んだ三人に、今回の任務に関する資料を渡す。彼は木島孝則と名乗った。今回初めて会うが、木島のように呪いを祓う実力はないが呪いを視ることが出来るという人物もいる。そういった人物は呪術師のサポートや、呪術高専に勤めているのならば高専の生徒の補助役になることが多い。
「今回の任務は__峠のトンネル、行方不明者五名、生死を確認の上、生存している場合連れ帰ること。」
 ちなみに後部座席の席順は木島から見て左から悟傑曜次の順番だ。曜次が窓際がいいとごねたので結局そうなった。悟は真ん中だと車のヘッドライトが眩しくてやっていられないという理由でやはり窓際になった。特にどこがいいという主張がない傑が自然中央になったのだが、別段不満があるわけではない。
 まだ完全にデジタル化されていない資料は、印刷するとそこそこの分厚さになっている。曜次はそれを見てすでに不満そうな顔をしているが、とりあえず一通り目を通す。隣の傑が覗き込み、さらに悟が覗き込もうとするので、途中から資料は傑が持って捲ることになった。
「五名だけ?」
 文章を追っていた曜次がふとそんなことを言った。
「いえ、実際はもっと多いのでしょうが、今回任務に当たってここ一ヶ月あまりの間このトンネルを通ったと思しき一般人の数です。実際には三名一組それから二名一組。このうち二名一組の方は行方不明届けが出されています。もう一組の方はどうやら大学生のようで、時期的なこともあり特に捜索願等はでておりません」
 時期的な問題、とはつまるところまだ大学は講義中であり、多少連絡が取れなくても不審がられていないということだ。木島によれば友人らの方が突然こなくなった三名を疑問に思っているらしい。
「雑誌にも載ってる有名なホラースポットに遊びに行ってそのまま行方不明ってことね」
「そうなります」
「ふぅん」
 曜次は首をかしげながら、右手を傑の肩に置いて残りの長い文章にさっと目を通す、残りの資料をちらちらと指で捲って、そこからはあまり関心なさげな様子だった。むしろ傑の方が熱心に資料に目を通していた。曜次は刀袋から刀を取り出してそれを肩にかける。
曜次、読まないの?」
「あとはなんか雑誌の記事みたいだしあんまり関心ない」
「存外、そういうところにヒントが隠れていると思うけど」
「俺が今まで呪いを祓いに行く時はそんな詳細なかったもん、今更なぁ」
 曜次はぼんやりとまだ動いていない窓の外の風景を見ながらそんなことを言った。
 木島がごほんと咳払いすると「呪術師は貴重な人材ですから、できれば全てに目を通して万全の対策を」と教師のようなことを言う。曜次は少し不満そうにまた傑の肩越しに資料に目をやった。
「残りは……古い雑誌の切り抜きか……随分長いこと放置されているね」
「俺は巧妙に隠れている、に一票」
 傑の言葉に曜次は意外な見解を示す。
「なんでそう思うの」
「そんだけ有名なホラースポットなのに今まで呪術師も呪術高専も動いていないんだろう。そりゃ僻地であるとか色々理由はあるんだろうけど、トンネルに行った全員が毎回殺されてるってわけじゃないからここまで目立たなかったと思うんだよね」
「つまり?」
「つまり相手は狡猾に対象を選んでいる。選んで、いなくなっても問題なさそうな連中を選ぶだけの知性を持っている可能性」
 知性を持つ呪霊、言葉をしゃべる呪霊に傑も悟も出会ったことがないわけではなかった。今まで祓ってきた連中の中にも明らかに言語による対話を求める呪いも、支離滅裂ながらも狡猾に生き残ろうとする呪いもいた。曜次は今回の事案もそういったものに近しいのではないか、と言いたいらしい。
 呪いというものは基本的に人が多くなれば多くなるほど数を増し、また狡猾になる傾向がある。元々呪いは人の心が生み出すものであるから、ある意味当然のことなのだが、智恵をつけた呪いはなかなかに厄介だ。
「まぁあんまり昔の人なんてもう死んでるだろうし、一ヶ月って時点で生存者の線は薄そう」
「完全に否定はできません、要救助者がいればそちらを優先してください」
「わかってまーす」
 曜次は軽い返事をして座席に寄りかかる。
「それではある程度準備も整ったようですし出発いたします。少し遠いので着くのは夕方頃になるかもしれません」
 木島はそういうと静かに車を発信させた。タクシーのように恐ろしく音がしない車だ。舗装されてはいるが凹凸の多い呪術高専周りの地面を走ってもほとんど振動がない。張り出した大きな根っこを超えるところでがたん、と揺れた、その程度だった。その拍子に刀がガチャンと鳴った。
 そうえいばと悟は思い返す。悟も傑も曜次が刀を抜いたところを一度も見たことがなかった。体術の訓練で木刀やら借り物の刀を抜くところは見たことがあるが、彼がいつも側に携える刀は一度も抜いたことがない。そもそも刀袋から取り出しているのも見たことがない。
曜次の呪術って何?」
 悟が傑越しに、興味深げに刀袋から取り出された刀を見ながら聞く。手を伸ばしてつんつんと指で刀の鞘をつついた。
「俺?俺は降霊呪術がメインだよ」
「降霊?体に降ろすの?」
「いや刀に降ろす」
 これとか、と曜次は鞘を叩いた。
「太刀・影鷹丸。一級の呪具。俺の家は刀鍛冶の家だって言ったじゃん? 自分でさ、刀を打つんだよ。で、俺の家は基本的に刀を打つと呪霊が宿る、って言うとおかしいか」
 なんていうんだっけと曜次は手をくるくると回しながら、言葉を探している。
「あの、ほら、道具に宿るやつ」
「付喪神?」
 答えを出したのは傑だった。「そう! それ!」とようやっと思い出したかのように曜次はぴっと傑の方を指差す。
「付喪神! それな! 俺の家系は刀を打つと完成したときに付喪神が宿るの。まぁ物も百年たてば宿るってよく言うけどさ、刀の場合はちょっと違って、打ちあがった時点で付喪神、つまるところ呪霊なんだけどさ、それがくっついた呪具になるわけ」
「へぇそれじゃあ影鷹丸は曜次が打ったの」
「あ、それは違う」
「今、自分で刀を打つって言ったばかりじゃん」
「俺才能がなかった」
 車はいつの間にか山間部を抜けて高速道路に乗ろうとしていた。某県まで二つほど県境を越えるためそれなりに時間がかかる。座る位置を正しながら曜次は話を続ける。
「本当は自分で刀を打つんだけど、俺びっくりするほど刀鍛冶の才能がなくてさぁ。刀を打つと折れるんだよね」
「刀って打つと折れるもん?」
「いや普通は折れないよ、俺が刀鍛冶と相性が悪いってだけ」
「よくわからないな」
「いつか見せてやるよ」
 曜次は楽しそうに笑っていた。

 車は県境を越え、高速道路に乗ったまま山奥まで進んでいく。途中渋滞に捕まることもなく、わずかな振動に揺られていると眠くなってくるもので、初めは窓の外を見ていた曜次も、特に何をみているわけでもない悟も傑に寄りかかって寝ていた。
 傑自身もつい先ほどまでうつらうつらしていたのだが、夢か現か、不意にトンネルの中に意識が閉じ込められてゆっくりと目を覚ます。比較的明るいトンネルの中、ひび割れたコンクリーとの隙間の闇に何かが潜んでいる。そんな奇妙な夢だが、強い現実味のある夢であった。正夢か、と思いながら周りを見回すとがくん、と傑に寄りかかっていた悟るの頭が落ちる。曜次も刀を抱えたまますぅすぅと穏やかな寝息を立てていた。
 今のは、何だったのだろうか。元々呪霊などと言うものに関わる仕事柄、まだ呪霊にもなっていない幽霊の類や明晰夢の類に遭遇することは決して稀なことではない。今のが本当にそうなのかわからないが、朝のホームルームで夜蛾先生が妙に不機嫌そうだったこともあって、なんとなく、なんとなく嫌な感覚が背筋から抜け切れなかった。
 悟がぼけっとしながら目を覚ます。そろそろ寝るのにも飽きてきたのだろう、この調子なら丸一晩眠くならないですみそうだ。曜次はまだ寝ているが、着く直前に起こせばいいだろう。
 そうして特に車の中ですることもなくぼんやりとしているうちに、今回の任地となる某県の山頂付近に作られたトンネルに四人はたどり着いた。携帯電話の電波もぎりぎり立つか立たないかという山奥で、周囲は崖で囲まれて、ガードレールだけがかろうじて道路から飛び出すのを守ってくれる。しかしそのガードレールもあちらこちらがひしゃげてどことなく不安を煽る。
 日は山の陰に入り、周囲を視認することが出来る程度の暗さになっていた。このトンネルへ来る途中、落石により通行禁止という三角コーンにテープを張っただけの簡易な通行止めを通りぬけてきた。落石などどこにもなかったから、あれは単純に一般人を避けるためのものだ。帳を下ろすまでもない、もうじき夜がやってくる。
 急カーブの向こう側、トンネルは突然ぽっかり暗闇の口をあけて姿を現した。木島はトンネルから十メートルほど離れたところに車を止めると、三人に起きるように促す。ここへ到着するまで完全に寝こけていたのは曜次一人で、傑と悟は通行止めの辺りからは完全に覚醒していた。もう十分寝ただろうに、曜次はまだあくびをして放っておいたらその場でもう一眠りしそうである。
「ついたぁ?」
「とっくのとうにね」
 もそもそと後部座席から降りてきた曜次はもう一度大きく伸びをすると、ぺしぺしと自分の手で自分の頬を叩いて目をこする。すっかり凝り固まった首を肩周りをぐるぐると動かして軽く準備運動をすると、後部座席の刀を引っ張り出して、ベルトの鞘に挟みこんだ。
 周囲には外灯がないために日が沈めば沈むほど闇に沈み込むことになる。トンネルの中は真っ暗で、向こう側まで見通すことはできなかった。まるでトンネルの中に闇が滞在しているかのような暗さ。車のヘッドライトがまっすぐトンネルを照らしているというのに、一向に中が見えない。
 その不自然さに初めに気づいたのは傑だった。
「トンネルの中ってライトついてなかったっけ」
 ふと、思い出したようにそんなことを言う。確かに渡された資料には
「切れてるんじゃん?」
「そうかな」
「それかもっとやばいやつ」
 曜次は言う。
「やばいやつ?」
「そう、もっとやばいの。夜蛾先生がさ、朝何か言おうとして結局何も言わなかったのってこのことじゃないかなって思った
 曜次はそういうと車からヘッドライトそしてトンネルの入り口までを指差した。
「どう考えてもおかしいだろ、こんだけ強いヘッドライトなのに、トンネルの中に入った途端ぷつんって光が消えてるの。これさぁ、もうトンネルの中は普通のトンネルじゃないんじゃないかな」
 曜次は奇妙に婉曲した表現でそんなことを言った。その言葉の意味するところに最初に気づいたのはやはり傑だった。
「領域?」
「俺はそう思う」
「でも二級以下の呪いだろ、領域展開なんて出来る?」
 悟の疑問ももっともなものだ。
 領域とは、そもそも様々なものが持っているものだ、だがこの言葉だけを使うと正確な表現ではなくなる。人に限らず呪いもまたこの領域と言うものを持つ。言い換えれば心の中のようなもので、単純なその領域を生得領域、と呼ぶ。生まれながらに持つ領域と言う意味合いだ。それに対し、術式を付与したものを普通は領域と呼称する。便宜上、先の説明で「領域」と使ったが、これはそのまま「生得領域」に置き換えることが出来るだろう。
 生得領域は誰もが生まれたときから持っているものだが、その規模や効果はものによって違う。だが少なくとも二級以下の呪いで生得領域を広げ人を飲み込む規模になっているというのは聞いたことがないほどに、領域の展開というものは難しいものなのだ。自己をはっきりと認識し、世界と自分の境界を明確にする。これを成しえるには呪術師にとっても呪いにとっても相応の時間と力が必要になってくる。現に、傑も悟も未だ完全な領域の習得には至っていない。呪術戦の頂点とも言われる領域展開はそれほどに難しい。
「俺は今回の呪いに関して言えば、二級じゃすまないんじゃないかと思ってる。元々智恵のある呪いが、ゆっくりと人を食って育って一級、下手したら特級まで育ってるんじゃないか、ってのが俺の予想。だってホラースポットとして有名になってあまりのも長いこと放置されすぎてる。詳しく調べたやつもいない、としたら俺たちの予想を超えて育っていてもおかしくない」
 すっかり日は落ちて、唯一の明りは車のヘッドライトだけになっている。それでも曜次の話を聞いて木島の顔が真っ青になっているのははっきりとわかった。今回の件は決して木島の責任ではないが、それでも死地にまだ十五、十六の子供を送り出すのは木島の役目なのだ。自分は手出しできないところで自分より一回り以上若い子供が死ぬのを傍観できるならそっちの方がよっぽど異常だ。
「しゅ、周囲は落石事故のため通行禁止となっております。ですので呪霊を祓い終えるまでは通行人はいません。生存者の救助と、そしてな、なによりご自身の命を優先してください」
 木島はつっかえつっかえそんな風に言った。
「行かない選択肢はないよなぁ」
 曜次は木島の言葉をぼんやりと受け流しながらトンネルに向かって歩き始めた。
 暗闇がどんどん近づいてくる。トンネルから闇があふれ出しているような錯覚すら覚えるほどに、トンネルに近づけば近づくほど見えていたはずのものが見えなくなっていくような錯覚を覚える。
「傑ー! 悟ー! もしかしたらやばいかもしれないからさ」
「来なくてもいいって?」
 悟はいつの間にか曜次の横に来て曜次の肩を抱いて引き寄せた。
「行くに決まってんじゃん、な、傑」
「二級以下なら私が取り込んで終わり、一級なら三人がかりってところだろ」
 曜次はいつもとは違う、少し恥ずかしそうな嬉しそうに笑った。
「うん、行こう、そうしよう」
 そう言うと先にトンネルの闇に手を伸ばす。トンネルと道路の境に入った途端、手は暗闇の中に持っていかれてしまったようにぷつんと途切れた。
「術式が付与されているかまではわからないけど確実に生得領域にはなってる、それじゃあ中がどんなことになってるのか楽しみにしておこう」
 くつくつと笑いながら曜次は一歩踏み出した。悟と傑がその後を追う。三人は一瞬暗闇の中に閉ざされて、目前が完全に闇となったが、そのまま手を伸ばして手探り手探り歩き続けると、突然ふわりと明るい空間に出た。
 真新しい蛍光灯が等間隔で天井についてる。天井までは三メートルあるかないか、曜次が鞘ごと太刀を伸ばすとぎりぎり届く。
「刀を振り回す分には問題なし、そしてありがたいことに明りも確保されてるときた」
「ちょっと眩しすぎるけどね。綺麗すぎだろこの蛍光灯」
「まるでさっき作られたみたいだ」
 トンネルの中はもっとひどいことになっていると予想していたが、トンネルはトンネルだった。いつの間にか入ってきたトンネルの入り口が、ずっとずっと遠くに行ってしまっている点を除けば、最近作られたトンネルといっても違和感がないほどに、壁も明りも新しい。むしろこんな山奥にこんな新しいトンネルがあるのは綺麗過ぎて違和感を覚えるほどだ。
「いないね」
 傑はこのトンネルを見たことがあった。ついさっき車の中でうつらうつらしているときに見た夢、その中で見たトンネルとそっくりそのまま同じだった。
 ぽつりと呟いた悟に曜次はこのまま進んでみようと提案する。
 戻るのも馬鹿馬鹿しい、そしておそらくいくら戻っても先ほど入ったトンネルの入り口にはたどり着かないだろう。トンネルの反対側の出口もまた馬鹿みたいに遠くにかすんで見える。とりあえずそっちに歩いていってみようという曜次の提案に傑も悟も同意した。待っていてもそのうち向こうから気づいて出てくるかもしれないが、それよりばらばらにならないように気をつけながら探した方が早い。
 暗闇はそれだけで心を不安にさせる。逆に明りがあるとなんとなくだが落ち着く。人とはそういうものだ。
 真っ暗闇での戦闘を想定していた曜次も悟も傑も蛍光灯の明りになんとなく拍子抜けしながら、ゆっくりと歩を進めた。ゆっくりと、本当にゆっくりと。
 曜次は刀の鞘に手をかけたまま、抜くことこそしないが、いつでも抜刀できるように準備は出来ている。悟も傑も戦う分には道具が必要ないので、あとは心構えの問題だ。心構えをする、という意味で道具があるのはいいかもしれないと傑が思ったとき、ぴしっ、と曜次の数メートル先の天井にひびが入りぱらぱらと、小さいとは言い難いコンクリートの破片が落ちて床にぶつかり、砕けた。

2018.10.22