ヨゴトノリトのパラドクス

転校生

 某県の山奥にある建物は、周囲の美しい自然とは異なる直線的な形をしていた。まだ真新しい白い壁、神社を思わせる長い長い階段の先に広く作られた広間と、そして柱がいくつも並ぶ建物が群をなしている。呪術によってひっそりと隠されたそこは密やかに、秘めやかに人々の口を伝って「怪しい霊媒師がいる」と広まっていた。「奇妙な宗教団体だ」と言うものもいる。明らかに怪しいが、それでも救いを求める人間はどこにでもいた。
 目に見えない何かにとり憑かれている、という陳情は山のようにあり、この宗教団体の教祖である夏油傑の下には週に何人もの人が訪れていた。
 今日は人が少ない、と朝一番目を覚まして夏油傑は思う。
 白い着流し姿のまま、そっと自室の窓を開けると、湿った空気が流れ込んでくる。雨がしとしとと静かに降っていた。白い石に落ちた水の粒が跳ねて、溶けて、また跳ねる。それを見ながらふと十三年前のことを思い出したのは、あの時もこんな雨の日だったからだろう。目を瞑れば今でも鮮明な思い出として蘇る、夏油傑がまだ東京都立呪術専門学校に通っていた頃のことだ。あの日は今日のように静かな雨が降っていて、そして、それに似つかわしくない晴れた日の日差しのような男が転校してきた日だった。
 その男は、今まさに夏油傑の足元で惰眠をむさぼっている。聞けば呪霊にゲリラ戦を強いられ三日三晩戦い通しであったという。食事もままならぬ状況で、空腹よりも眠気が勝ったのか、傑が足でちょいちょいとつついても目を覚ます気配はない。刀を抱き込んでよだれを垂らして寝ている姿からは、とても特級の術師であるようには見えなかったが、これでも外からの評価はそれなりに高いのだ。間違っても足で蹴っ飛ばしていい人材ではなかったが、そこは夏油傑と天野曜次両名の関係の為せるものであろう。彼との付き合いはもう随分と長くなる。
 傑はぼんやりと窓の外を眺めながら、彼と初めて出会った日に思いを馳せた。

* * *

「着席、そして注目」
 サングラスをかけた大柄な男は指を立てて仰々しくそんなことを言った。黒い髪を角刈りにし、黒いスーツを着ているとどう見てもその筋の人間にしか見えないが、これでも呪術高専の教師である。見た目はやけに恐ろしいが、彼が日々可愛らしい人形を作っていることは呪術高専に通っているものなら誰でも知っている。
 湿気のある空気が窓から入り込んでくる日々はそろそろ終わりを告げようとしていたが、今日はあいにくの雨だった。まだ夏の日差しは遠く、もうしばらくジメジメとしたこの天気と付き合わなければいけないらしい。天気予報によれば、晴れ間は近い。
 今年の四月に呪術高専に入学したばかりの夏油傑と五条悟は二ヶ月たってもお互いの距離感を掴みかねていた。入学した時に「これから同じ任務につくことも多いだろうから仲良くするように」などというテンプレートのような台詞を言い渡されて、一度だけお互いの顔を見た、それきりだ。寮の部屋はどこでもいいと言われたのでお互いなんとなく一部屋だけ空けて部屋を選んだ。そうしなければいけない理由はない、だが隣にする理由もなかった。だから一部屋あけた、それだけのことだ。
 入学してすぐ傑にも悟にも低級呪霊を祓う任務が言い渡され、二人で行くほどのものでもなかったために二カ月たった今の今までお互いがどんな呪術を使うのかも知らなかった。実はもう一人、悟と傑には同期生がいたが、彼女はその特異な術式からあちらこちらへひっぱりだこで、教室で顔を合わせることはほとんどなかった。合わせたところで何かあるわけでもなし、ようするに何も知らないのだ。
 夏油傑から見て、五条悟はぼさぼさの白銀の髪を適当に立たせたまま、常にサングラスをかけていた。肌の色も薄いことからサングラスは単純に眩しさを軽減するものであると思われるが、傑は一度もそのサングラスの下を見たことがない。なんとなく幼げな顔立ちをしているが、サングラスのせいでいかつい印象が拭えなかった。
 五条悟から見て、夏油傑はオールバックにした髪をお団子にして結んでいる。ぬばたまの黒い髪、同じ色の切れ長の瞳が美しい。悟と並ぶと少し年上に見えるが、年は同じだという。表情の変化が乏しく、あまり笑っているところも怒っているところも見たことがない。悟自身もこの二ヶ月別段笑ったり悲しんだりを露骨にしたことがなかったから、単純に付き合いの浅さがそう見せているだけなのだろうと、悟は思う。
 要するにお互いのことを何にも知らないまま、ただ名前だけを知っている状態の二人に三人目がくるということだ。三人目がくる、といってもお互いにとってはだからなんだという印象である。元々呪術師というのは数が少ない。幼少期から呪霊が見えれば異端と呼ばれ、幼い子供だけでなくいい年をした大人からも理解を得るのは難しい。その結果、孤立することも多かった。五条悟も夏油傑もその類だ。五条悟は家柄の関係もあって、露骨ないじめというものにあったことはなかったが、一般家庭出身の夏油傑はそれなりに経験がある。とはいえ夏油傑は甘んじて暴行を受け入れるタイプではなく、しっかりやり返すタイプであったため、不用意に触ってこようとする相手はいなかった。呪霊が見えるという人物に出会ったのも高専に入って初めてだ。だから悟も傑も高専に入って友人ができるという希望もあまり持っていなかった。
 だからなおさら、入ってきた転校生があまりにも眩しくて二人は度肝を抜かれることになったのである。
「入っていいぞ」
 がらりと教室の引き戸が開く。
「はーい! こんにちはー、俺は代五十四代天野家当主、天野曜次! よろしく!」
 髪は黒く、瞳も黒曜石のような深い深い黒。光の加減で時折その黒の中に燃えるような赤色が見える気がする。前髪は真ん中でわけ、左右に流し、傑と同じようにハーフアップに束ねた残りの髪の毛は長く、腰ぐらいまであるだろう。顔だけみれば女、のようにも見えた。まだ十五歳の少年と言ってもいい年であることがなおさら、童顔の彼を幼い女のように見せたのだろう。
 曜次と名乗った男は刀袋を背負って、満面の笑みを浮かべて教室に入ってくる。堂々と名乗り、そして沈黙。傑と悟のひんやりとした空気と、曜次の明るすぎる空気に、これが水中であれば温度躍層が出来かねない勢いだ。
 傑と悟は正直なところ何を言っていいのか迷っていた。自己紹介なんてものをした記憶はもう随分昔のことだ。夜蛾先生は特に何も言わなかったからなおさら、はてどうしようと迷っていたところに、曜次は遠慮なく踏み込んできた。
 天野曜次と名乗った男は、右手で悟の右手を、左手で傑の左手を掴むとぶんぶんぶんと勢いよく手を振って「よろしく!」と楽しそうに笑うのである。
「俺学校って行ったことないんだ! だから同じ一年に男子がいるって聞いてすごく楽しみにしてた、名前は?」
「五条、悟」
 手を握ったまま曜次は楽しそうに、子供が綺麗な石を見つけて喜びはしゃいでいるかのように、実に楽しそうにそう言って悟の方を向く。悟がその気配に明らかに押されて名乗っているのが傑には少し面白かった。だが次は傑の番だ。
「さとるね、悟! よろしく! で、次!」
 曜次の綺麗な顔が傑の方を向く。
「夏油傑」
 傑は簡潔に答えたが、その口調が少しばかり固いことに悟も気づいたのだろう。口元が少し緩んでいる。そんな悟の表情を傑は始めてみた。面白くないという表情をする傑に対して曜次は興味津々であった。
「げとうすぐる? 漢字どう書くの?」
「なつ、にあぶら……で夏油、すぐるは、傑出とかのけつで、傑」
「へー! 珍しい字書くんだなぁ下の名前すぐに出てこなかったから後で調べとくよ! 俺は曜次だよ!」
 そういうと曜次はそのまま二人の手を離し、黒板に向かうと天野曜次、とあまり上手とはいえない字で大きく自分の名前を書いた。カッカッカッと古い黒板に白い文字が刻まれていく。チョークを二度折りながら曜次は自分の名前を書き終わる。
天野曜次! 今日から高専一年生!」
 曜次はぴょんと飛んで黒板を背に二人の方を見る。その拍子に背負っている刀がぶつかってガシャンと鳴った。
「それじゃあ、夜蛾先生! 俺今日仕事あるんで先にかえりまーす!」
 曜次は現れたときも突然だったが、去るときも突然であった。
 思わずぽかんと口を開けた傑と悟を教室に残したまま、仕事があると一言告げてさっさと教室を出て行ってしまったのである。あっけにとられている二人を見て夜蛾先生がくつくつと笑っているのが見えた。
「先生」
 笑わないでくださいよ、とばかりに傑が言うと夜蛾先生は「すまんすまん」といいながらもそのサングラスの瞳には楽しげな色が浮かんでいることは明らかだった。
「あいつが今日から呪術高専に転校してくる天野曜次だ。今日から一週間程度は来ないと思うが、それからは寮に入るから、入ってきたら色々教えてやってくれ、以上」
 朝のホームルームは終わり、と切り上げて夜蛾先生が帰ってしまうと、残された二人に微妙な沈黙が流れる。それを破ってぼそっと呟いたのは悟のほうだった。
「僕、初めてオマエの名前聞いた気がする」
「……」
 傑は沈黙する。傑も同じだった。まともに悟の口から悟の名前を聞いたのはこれが初めてかもしれない。

 嵐のように現れて嵐のようにあっという間に去っていった同期は、それから一週間後、夜蛾先生が言っていた通りに寮にやってくると、傑と悟の微妙な距離が置かれていた寮の一室、つまり傑と悟がはさんであけていた真ん中の部屋に入ってきたのだった。

 それが夏油傑と五条悟の騒がしい呪術高専での生活になるとは、まだ誰も予想できなかっただろう。



20181018
20200528 加筆修正