ヨゴトノリトのパラドクス

置いていかれた夏の日

 曜次が死んだ。
 その報告は、朝のホームルームで苦々しげな顔をした夜蛾正道からもたらされたものだった。
 東京都立呪術高等専門学校の四年になり、半年と少し後には卒業を控えた家入硝子、五条悟、夏油傑の三人は、今日もまたいつもと変わらない日常が始まるだろうと思っていたのに、その一言を聞いて、ぴたりと動きを止める。
「死んだ?」
 言葉が理解できない。意味が理解できない。ただその言葉だけが右耳から入って左耳に抜けていく。頭が麻痺したように動かなかった。思わずその言葉を繰り返した悟は、冗談だと言ってくれとばかりに言葉を繰り返すが、担任の夜蛾正道は渋い顔をして頷くだけだった。
「先生、待ってください、だって曜次は、確かに一人で任務に行きましたけど、でも曜次が、死ぬような任務じゃ」
「遺体は一階の安置所にある。硝子は仕事があるからあとで職員室に来るように、以上」
「先生」
 それだけ言って背を向けて教室を出て行こうとする夜蛾に傑が慌てて声をかける。だが、夜蛾は立ち止まることなかった。
「……遺体は明日には天野家に帰る。葬儀には天野家以外は参列できないとのことだから、今日中に会いに行け」
 夜蛾が言ったのはそれだけだった。たったそれだけ。
 放心した様子の悟がぼんやりと添乗を見ている。硝子は二人を残していくべきか迷ったが、夜蛾に呼ばれているのだから仕方ない、二人に響かぬよう、静かに、静かに教室を抜けて職員室へ行ってしまった。
 残された二人は沈黙を守ったまま何を言うこともなかった。
 何も言えることがなかった。
 二人の頭の中では、いつものように教室に戻ってくる曜次の笑顔しか浮かんでこない。
 死んだ?
 死んだとはどういうことだ?
 何故?
 何があった?
 様々な疑問が頭の中を巡り、そして最後には必ず曜次が死んだ、という言葉に戻ってくる。
「だって」
 悟るが言う。
「今回はそんなに難しくない任務だって言ってたんだぜ」
「ああ」
曜次は一級だ、そんな簡単に死ぬわけがない」
「ああ」
「ああ、じゃねぇよ!」
「悟、落ち着け」
 傑はいつも通りの表情で、襟首を掴んだ悟の手に自分の手を重ねる。
 荒い息をついて傑に掴みかかった悟は、傑の目から一筋涙が零れたのを見て、はっとすると、「ごめん」と言って再び席についた。
 傑は悟ほど感情をあらわにしなかったが、ぽたり、ぽたりと両目から涙が溢れている。それを誰かに見られるのは癪なようで、すぐに袖でふき取ると、そのまま机に突っ伏した。
 嫌な静けさだけが教室に満ちている。誰かにこの怒りをぶつけたい、だけれどもぶつける相手はどこにもいない。
 信じたくない事実を目前にして、二人とも完全に停止していた。冗談だと思いたい、だが冗談ではないという事実が、今日の朝には帰ってくるはずだった曜次が帰らないことでどんどん裏打ちされていくのだ。
「……悟、行こう」
「……うん」
 長い沈黙だった。長い沈黙を経て、先に声をかけたのは傑だった。
 悟と傑はゆっくりとした動きで席を立つと、夜蛾に言われた通り、一階にある安置所に向かう。その歩みは亀より鈍い。信じたくないのだ。だが遺体を見たらそれが事実になってしまう、だから見たくない見たくないのに気付けば安置所は目の前にあった。
 ノックをしてから扉を開ける。そこには数少ない呪術高専の教職員と、先に来ていたらしい家入硝子が待っていた。そして彼らが囲むようにしている机の上に、彼は、居た。
曜次
 悟が声をかけて近寄る。傑もまた駆け寄ろうとしたが足がもつれて床にしゃがみこんだ。今度こそ本当に涙が止まらなかった。
曜次
 悟がもう一度声をかけるが曜次は笑わない。彼は静かに眠っているようだった。
曜次
 悟の目から涙が零れる。
曜次曜次、なんで」
 傑が叫んだ。
「なんで置いていった!」
 数少ない教員は静かに礼をすると、その場から立ち去った。残されたのは夜蛾正道と、家入硝子と、そして悟と傑の四人だけだ。
 しんと静まり返った遺体安置所の中に、二人の嗚咽が響く。硝子も夜蛾正道も表情は暗く、泣く二人のことをとめることはなかった。
「なんで」
 置いていったんだ、と傑が叫んでも曜次は返事をしない。その屍にはもう魂は存在しない。
 気が狂いそうなほどに時間が鈍く進んでいた。曜次が死んだという事実が、重たい石を背負っているかのように、ずっしりと背中にのしかかってくる。
 死んだ、死ぬ、死……それは呪術師であれば必ず出会うものだ。呪術師には常に付きまとう死の危険も曜次ならば切り捨てて帰ってくると信じていた。
 四人はあと半年もすれば皆で卒業して、その後はもっと呪術師として忙しくなっただろう。せわしない日常の中で、たまには顔を合わせたりして、いつか曜次は特級になって、そうしたらお祝いをしようと、曜次が一級に昇級したときに話をしていた。成人式には四人で集まろうという話もした。困ったらお互い連絡しようと約束もした。あと半年のうちに卒業できるかな、と赤点に苦しむ曜次を笑いながら、皆で勉強会も開いた。
 曜次曜次、と悟がいくら呼んでも曜次は生き返らない。硝子の反転術式も、死者を生き返らせることはできない。
 日常はこうも簡単に崩れ去っていく。
 でも本当は、誰の日常だって薄氷の上に立っているようなものなのだ。常に死は足元にあって、常に日常が崩れ去る可能性は足元にあって、そして時がくれば薄い氷はパリンと割れて、日常は崩れ去る。そして死が身近にやってくる。幸せも楽しさも悲しさも全てが全て、あっという間に崩れ去るものなのだ。
 起きてよ、と悟が何度話しかけても曜次は目を覚ますことはなかった。夜蛾正道も何も言わなかった。サングラスで隠れた下で何を思っているのかはわからないが、眉根を寄せた表情は必死で泣くのをこらえているようにも思える。」 呪術師になったときから、死は目前にあるものだと常に実感していたはずだ。だが本当に死を理解できていたのだろうか、と問われればきっと誰もが違うと答えるだろう。目前にある死を見つめていては誰しも前に進むことは出来ない。人間は忘れるということで、死の恐怖から、死の悲しみから逃げて前に進むのだ。
曜次
 お別れなのだ。だから言いたいことは山ほどあったのに、傑は気付いてしまった。
 ああ、と思うと同時に傑の中にどす黒い感情が浮かび上がってくる。呪詛としてそれは口から飛び出そうになるのを必死でこらえた。必死でその言葉を飲み込んだのだ。
 悟と傑、二人の脳内に直接語りかけるような声が響いたのは、まさにそんな時であった。
『屋上に来いよ』
 それは聞きなれた曜次の声のようであって、違う。悟と傑の二人は直感的に「影鷹丸」の声であることに気付いた。影鷹丸は生前、曜次が愛用していた刀だ。つい四月のこと、影鷹丸が特級の呪具として認定されたと喜びながら報告をくれたことが未だ記憶に新しい。
 二人はふらりと立ち上がると、そのまま遺体安置所を出る。傑にはこれ以上曜次の遺体を見ていることが辛かった。悟にはもうこれ以上曜次と向き合うことができない気がした。
 気の乗らない足取りで屋上に向かう。屋上には鍵がかかっているはずだが、奇妙なことに今日はその鍵が空いていた。二人は迷うことなく屋上に出て、そして扉の正面に曜次の姿を見た。
 はっと二人が足を止めるが、すぐにそれが影鷹丸の変化した姿であることを察する。
「悪いね、お別れの時に」
「君は」
 傑の言葉にはほんの少し怒りがこもっていたが、曜次の姿をした影鷹丸が即座にその言葉をさえぎる。
「俺は呪霊だけどこれでも主の死を悼んでいるんだ。曜次は今まで出会った中で一番良い主だったよ。俺がお前らを呼んだのは他でもない、ただ一つの事実と遺言を伝えるためだ」
「事実?」
 悟はゆっくりと口を開く。
「そう事実。傑は気付いているんだろう」
 何に、とは言わずに、影鷹丸は顎で傑を指す。悟ははっとして傑に向き直るが、傑は地面を見つめたままじっとしていた。
「怒りか? 押さえろ。悲しみか? 飲み込め。どれもこれから話す俺の話の邪魔になるだけだ」
「影鷹丸」
 傑は低い声で一つだけ尋ねた。
曜次は、人に殺されたんだな」
 悟は傑の顔を見たまま、沈黙した。
「あの遺体には呪霊の残穢はなかった。遺体には呪いに殺された形跡はどこにもなかったんだ。ならば、曜次を殺したのは」
「そうだよ」
 影鷹丸は傑の言葉を丸ごと飲み込んで答える。
曜次は人に殺された。何が起こったのか話すとしようか。俺は話の邪魔をされるのは嫌いだから黙って聞いてくれよ」
 そういって話し始めた曜次の最期は、悟と傑が創造するよりも何よりもずっと悲惨だった。
「元々一級の呪霊という話で任務に向かったんだ。正直なところもう一級、いや特級の呪霊だってそう簡単に曜次は殺されないと思っていた。でも全てが間違いだった」
 曜次が任務で赴いた地は、日本の辺境の地と言ってもよいほど山深いところにある小さな集落であった。老人の多いそこは、呪術師である曜次のことを元から疎んでおり、呪霊の話をしながらも曜次を気持ち悪い思っているのは簡単にわかった。影鷹丸はその時点で、曜次を疎んでいる割に、気持ち悪い笑顔で対応すると思っていたが、それは全て曜次を殺すための布石だったのだ。
 曜次は特級の呪霊と戦うことになる。廃屋となった大きな屋敷の中で、特級呪霊と向き合い戦った曜次は、それなりに傷を負ったものの、問題なく特級呪霊を倒すことができた。問題はその後に発生した。特級との戦いで傷を負い、機敏に動けなくなった曜次の居る屋敷に村の連中は火を放ったのだ。曜次が戦っている間に油を屋敷に撒き散らし、そこに火を放ち、天をも焦がすほどの大火に曜次は巻き込まれた。死因は窒息だった。曜次が居た場所までは焼け落ちることは無かったが、もうもうと立ち込める煙に、曜次はあっという間に酸欠になり、そのまま死んだ。彼の身体に呪霊の残穢が残っているはずが無い。彼の身体に向けられたのは純粋な呪い、呪術師を疎む、常人の狂気だ。
曜次は最期にお前たちに「長生きしろ」と伝えろといわれた。それから「姪のことをよろしく」とも」
 影鷹丸はそこで言葉を切る。
「遺体は焼けなかった。俺が守ったから。それを村の連中は気味悪がった。俺はあの連中を殺しても良かったんだ。でも曜次はそれを望まなかったから」
 影鷹丸はそう言って二人の顔を見る。
「俺から離すことはこれだけだ。俺も明日には曜次の遺体と共に里に帰る。そしてまた蔵の中で眠るんだ。じゃあな」
 影鷹丸はあっさりとそう言って、ふわりとその姿を消した。最後の一瞬、曜次の姿をした影鷹丸は曜次がいつもするように笑っていたように思えたが、消えてしまった今、最早その事実を確認する術はない。
 悟と傑は屋上で天を仰ぎながら、ぽつ、ぽつ、と雨が降っているのを眺める。
曜次が来たのもこんな梅雨の日だった」
「ああ」
「覚えてるか、私も君もろくに話したことがなかったのを、曜次がつなげたたんだ」
「覚えてるよ、お互い名前も知らなかった」
 雨はそのうち小雨になり、さー、と二人の身体を塗らしていく。それでも中に戻る気にはなれなかった。もうこれっきり、曜次と会うことが出来ない事実を二人は飲み込まざる得ない。それは喉の奥に詰まって、なかなか落ちていかない事実だった。
「悟」
「なに?」
「私は行くよ」
 傑の言葉に悟は何もいえない。どこに行くのか、も何をするのか、も何もかもわかってしまったからだ。
「傑」
「私は行くよ、もうだめなんだ。私にはもう限界なんだ」
 今まで感じていた呪術師の闇を抱えて、傑はもう何もかもが許せなかった。
「傑」
「悟ともさよならだね」
「傑」
「置いていくことだけは謝っておく。硝子と仲良くね」
 傑が言い残したのはそれだけだった。悟には傑を止めることはできなかった。雨の中一人取り残される。
 
 ああもう少しで夏がくる。暑い暑い夏がやってくる。それでも君はどこにもいない。君だけがいない世界がこれから始まるのだ。
 暑い七月と八月を超えて、九月に入った頃、夏油傑は呪術高専より追放された。彼は、天野曜次を殺した村の連中八十余命を皆殺しにし、姿を消したという。
 傑は世界を殺そうと決めた。悟は世界を変えようと決めた。

 二人は今も置いていかれた夏の日のことをよく覚えている。



20190318