朝はいつだって目覚めがいい。チチチという鳥の声を聞きながら、カーテンを開いてベッドからおりるとくしゃくしゃになったズボンが床に落ちた。昨日はそういえばすごく眠くてたんすにしまうのを忘れていた。けれどもそれをしまう気にもなれず、しばらく部屋の中をぐるぐると歩き回ってから完全に目を覚まして、それからわたしはまだ肌寒さが残る外へ飛び出した。

「いってき、まーす」

声を潜めて言ったのは、まだばあちゃんが寝ているからで、別に疚しいことがあるわけではない。わたしはこれから単に朝のジョギングに行くだけで、何も悪いことなんてひとつもしていないのだから。履きかけだった靴を履きなおして、一応携帯がポケットにあることを確認して(ばあちゃん曰く非常用)それから軽いストレッチの後にゆっくりと走り出す。最初は体を慣らす意味もあって、半ば早歩きのような形から。そして坂をひとつ越えたら今度は顔に風を感じるぐらいの速度で走り出した。
少しずつ車の数が増えて、電車の本数も増えてくるこの時間帯は、それでもまだ人が少なくてとても走りやすい。それに朝の空気ってどこかぴりっとしていて、きれいで、わたしはそれが好きなのだ。まだ水滴が残る、庭からはみ出た葉っぱを避けるようにしていつもとまったく変わらない、同じペースで走り続ければ、やがていつも立ち寄るコンビニが見えた。コンビニといってもほとんど個人経営。カウンターにいるおじいちゃんは、顔なじみで、いつも立ち寄ると少しだけまけてくれた。じいちゃんとばあちゃんからもらうお小遣いは、そんなに多くないけど、朝ここでちょっとだけ冬は暖かいものを夏は冷たいものを買うのが好きだった。
ただ、そんな習慣もある日を境にぱっとやめてしまったのだけれど。
わたしは毎日、朝は6時に起きてジョギングに行く。律儀だね、なんて言葉では表せないほどに、習慣になってるから、気づけば朝起きて走り出している。これはもうしょうがない。坂の多い石畳の通りはちょっと走りにくいけど、それでもこの景観は嫌いじゃないから、時々違う道を通っている。そして最後のコンビニにたどり着くわけだが、ふと顔を上げるとコンビニの前でタバコをふかしているそいつと目が合った。
ジャージは見たことがあるブランドだったが、そんなことどうでもいい。一目でこいつはヤバイ、とわかるほどにそいつの纏が安定していたのだ。わたしはじいちゃんとばあちゃんからちょっとした事情があって、念を教えてもらって、もう十年近くなるから、気になることがあったら凝をする癖がついていたんだけど、この時ばっかりは凝をしなければよかったと思った。
念能力者ってのをわたしは詳しく知らないけれど、それでも上位の念能力者になればその力は、一般人には脅威そのもの。本当に良い人でない限りは、近づくのは危険なんだって。ばあちゃんの受け売りだけどね!そのときなんで、って聞いたら強い人間は強くならざる得ない過去があった、それが悪いものであればあるほど命の危険に関わるから強くなるけど、そんな環境で育つとどうしても一般に平和で暮らしてる人とは感覚が違ってしまう、だから危ない・・・ってことなんだけどちょっとそれは穿ちすぎな気もしてる。でもそれは今はどうでもいい。
とにかくコンビニの前にそいつはいて、恐ろしいほどのタイミングでそいつは顔を上げた。私は最初ただタバコを吸ってるだけだから、いやだなと思っただけなのだ。でもそいつのジャージに見慣れない赤い染みがあって、それが背中で、あのブランドにはこんな染みなかったよなって思って凝をしたのがまずかった。わたしが凝をすると同時にそいつは振り向いて、眉のない、人相の悪い、挙句に目つきも悪い目とばっちり視線があった。相手も念能力者なら、何かあればすぐに凝をするだろう。とすれば私もへたくそな纏で身を守った念能力者だとわかったはずなのだ。
一瞬だけそいつの目つきが厳しくなって、わたしは思わず身が竦んだ。念能力者であると知られるのはよくないとばあちゃんにずっと言われていた。じいちゃんにだって言われた。念能力者は数が少ないから、使えるとわかればどうにでも利用される可能性がある。それでも教えないといけない、といっていたじいちゃんにもっときちんと理由を聞けばよかったのだ。そしたら、こいつが念能力者だなんてわからなくてすんだのに!!!

「おい...」

安定していたそいつの纏が、ふいに揺らいでわたしは今度こそ本格的に身の危険を感じた。相手の発なんてわからない。相手がどれくらい強いのか見極めることもできない。わたしにできるのは唯一逃げることだけだったから、わたしは反射的に振り向いて走り出した。ジョギングで走っていたよりもずっと速く、一般人には追いつけない、でも陸上部で毎日走っているから一時間はゆうに走り続けられるような、速度で。なのに、そいつは何でもないかのように追ってきて、ぞわりと背筋に寒気が走る。
逃げて、追われたら私の念は発動する。わたしが平常心を保って走り続ける限り、あいつは絶対に追いつけないとわかっていても、猛烈な重圧が朝の静かな空気を支配しているようで、喉がからからに渇いた。

「逃げんな!!!」

後ろから怒鳴り声が聞こえても振り返る余裕もなく、そうだ、携帯をと思ってポケットに手を突っ込んでもそこには何もない。助けも呼べない、でもあんな形相の怖い念能力者を家に招き入れるわけにもいかない。警察だってきっとどうしようもない。だから、逃げるしかない。
大丈夫だ、大丈夫だ!わたしが走り続ける限りあいつは絶対に私に追いつけないのだ。どんなに怒鳴ってもたとえ銃を持っていても、あいつは絶対にわたしに追いつけない。大丈夫だ!
ペースを乱さないように、と思うよりは無心になった方がペースが崩れない。あいつから逃げ始めたときのペースを保てるように、ひとつ息を吸って、しゃっくりがでそうになるのをこらえて、涙もこらえて、必死で心を落ち着かせる。
今日はきれいな朝だ。「待ちやがれ!!」空気も澄んでいて、そうだ、春が近い。「おい赤髪のてめぇだ!!」春が近くなると空気には新芽と土のにおいが混ざる気がする。雨があがった直後と同じ匂いだ。「クソッ、念か!!」なんでばれたの!?
走りながら後ろを振り向けないけど、あいつが練をしたのがわかって、冷や汗がどっと出る。風に触れて腹周りがひんやりと冷たくなった。首筋から入ってくる空気がこんなに寒いと感じたことはあるだろうか。涙がこぼれて、我慢していたしゃっくりが出る。呼吸が乱れる。それでも足を止めなかったのは、死にたくなかったからだ。
わたしだってまだ華の中学生、これからいろんな楽しいこともあるって知っている。大人にならないとできないこともある。じいちゃんとばあちゃんが昔旅をしたきれいな景色もたくさん見てみたい。恋人だって、ほしい。だからこんなところで死にたくなくて、死にたくないなら、わたしは足を乱さずに走るしかない。捕まれば死ぬ気がしたのは、なんとなくだけど、少なくともあいつが良い念能力者ではないことは確かだった。あの時、ジャージに見えた赤い染みは血だ、と思ったのは直感だったけれど間違いではない気がしている。暗闇に放り込まれたときの得たいの知れないものに対する、自分の脳みそが作り出した恐怖とは、今感じるものは違った。目の前で銃を突きつけられてカウントダウン、そんな風にして死ぬかもしれないなんて思ったことはないけど、たぶんそんな感じ。頭の中では必死で冷静にそんなことを考えていたけど、今にも肺がつぶれてしまいそうなほど酸素が欲しい。誰もいない通りを誰に助けを求めるわけにもいかず、ひたすらに走っていると孤独感に押しつぶされそうだった。どうしたらいいんだろう。どうしたら、あいつから逃げられるんだろう。だって、誰かに話しかけて立ち止まったら念がきれてしまうから、この状態で走り続けないといけないけど、でももう怖くて怖くてどうしようもない。絶対に逃げ切れる、そういう念なのに、それでも、涙が止まらない。
そして一時間、わたしは眉のないマフィアではなさそうだけど、怖いそいつから、逃げ切ったのだ。

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2014/04/08